130話
残酷な真実を知ったトニトルスは部屋が震えるほどの声で叫んだ。
「なぜジュディを殺した!」
憤怒の感情をあらわにする彼を前にしても、火は落ち着き払って淡々と言葉を吐く。
「あの小娘は、心にもないことを口にしてしまったことに疑問を持ち……バンクホーネスの魔女ターシャ・ベルーカに憑物がないかどうかを調べてもらった。そのとき、私に操られたことを知ったのだ。すべては火の呪いのせいだということを我が主に告げ口し、許しを乞うて復縁しようとしたから黙らせたのさ」
「なんということを……」
炎の熱を体に浴びながら茫然と口にしたのはエミリアだ。彼女を威嚇するかのように、激しい音をたてながら火が渦を巻く。
「主は私だけのもの。つまらぬ人間の女になど盗られてなるものか」
その言葉を聞いたトニトルスは怒りに髪を逆立て叫んだ。
「黙れイグニス!」
喉の奥で獣の唸り声を上げた彼は上体を屈める。そして半分狼の姿になりながら火の塊に突進し、その鋭い爪で真っ二つに切り裂いた。
「――祈り火フラーマの加護を授かりし人の子よ……我が主の前から永遠に消え失せよ。さもなくば後悔することになるぞ」
散り散りになった炎は言葉の残響と共に宙で溶け、それと同時に部屋を照らしていたすべての灯が消えた。
静寂が訪れる。トニトルスは牙と爪を収め、顔を強張らせたまま立ち竦んでいるエミリアに振り返った。
「同胞が不快な思いをさせてすまない」
目を伏せた人狼は床を睨みつつ続ける。
「奴はイグニス……四大エレメントのひとつ、火の精霊だ」
世界を構成する「火・風・水・土」。グレンスピア大陸では古くからこれらに宿るものたちを四精霊と呼んでいる。四精霊は陰と陽に分かれると考えられており、祈り火のフラーマ、清風のヴェンナ、天つ水のイーベル、沃土のテルスは陽の精霊とされ、天地の母神クインレスタの使いとして崇められている。対して陰の精霊である業火のイグニス、狂風のプロケーア、腐水のフルヴィ、荒れ土のフムズは地獄の王カルカダーラの使いであり災いを呼ぶものと恐れられてきた。
イグニスは地獄王カルカダーラの右目からこぼれ落ち、世界が創造されるとき地上に降ってきた最初の光のひとつとされている。陽の四精霊である祈り火のフラーマは、最古の邪悪とされるこの火と時を同じくして生まれた。ふたつの光は絡み合いながら大地に落ち、砕け、世界に散らばった。砕けた瞬間の閃光は昼となり、その光が消え去ったあと夜ができた。これが世界の始まりである。
「イグニスは狡猾な野郎だ……互いに疑心を持たせ潰し合わせようとする。実際に数年前、ファヴィラの妹であるウングラとオレはあいつの陥穽に嵌り対立した。あなたは奴の策に乗せられないよう用心しろ。いいな」
トニトルスはエミリアの菫色の瞳を覗き込む。その声は真剣そのもので――自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「なんてひどい精霊なの……何百年と一緒に生きてきた盟友を陥れるだなんて……」
「オレたち魔物に友と言う概念はない。損得か、腐れ縁か、そのどちらかだ」
薄闇のなかで、太陽のような黄金の瞳が美しく輝いている。
「イグニスはリュシアンにしか価値がないと考えている。だからあいつの周りにいる目障りなオレたちのことを排除したくてたまらないのさ」
「リュシアンがそのことを知らないはずないわよね」エミリアは憂いを帯びた微笑みを浮かべ、「そんな危険な考えを持っている者を傍に置いているのは、自分にとって有益な存在だから?」
「その通りだ。使役された者は主を殺すことはできない……つまりこの世界の火そのものであるあいつを使役することでリュシアンは、身を焼き尽くし滅ぼす炎から己を守ることができている」
「だから太陽の下でもあんなに平気な顔をしていられたのね……」
「もともとの魔力の高さももちろんあるだろうが、陽光の中で長時間行動できるのはやはりイグニスを従えているからだろうな」
「あなたたちは皆……なにかしらの能力を買われてここにいるの?」
「ああ。ファヴィラは占術、オレとウングラは護衛としてリュシアンの役に立っている」
彼は亡きメトゥスのことを想いながら、言を継いだ。
「リュシアンに出会えたのは幸運だったとしか言いようがない。そのお陰で魔物同士の厄介な争いに巻き込まれずに済んでいるんだからな。人間と狼の間に生まれたオレや、魔女に呪い殺された母親の死体から生まれたあの姉妹のような下級種は、上級種の魔物の威を借りなければとうてい生き残れない。その見返りとしてオレたちは、あいつが窮地に陥るたび剣となり盾となって戦ってきた。オレはあいつがやれと言うならいくらでも人間を殺して血祭りに上げてやる」
トニトルスはいつになく真剣な顔で、眠り続けているリュシアンを見つめた。
「今すぐ命じられたっていい。いつでも準備はできているんだ」
そのときふいに、エミリアの胸に疑念がよぎる。
損得か、腐れ縁か。共にいることの理由がそれしかない世界で、リュシアンは900年以上の長きに渡り生きてきた。そんな男がこれからも純粋に人を愛し続け、待ち続けてくれることなどあるだろうか。トニトルスのように強くもなく、ファヴィラのように聡くもない自分を、この先も必要としてくれるだろうか……




