129話
「いったい何があったの……」
エミリアは涙に濡れた顔を上げ、消え入りそうな声で尋ねる。微かに光る黄金の瞳でリュシアンを見下ろしていたトニトルスは、しばらく黙り込んだあと静かに言葉を紡ぎ始めた。
「――彼女の名はジュディス・マデラン。既婚者でありながらリュシアンのことを深く愛してくれていたんだが……正体を明かしたとたん人が変わったようになってな。リュシアンは彼女に化け物と罵倒され、当時住んでいた国を追われたんだ」
エミリアは絶句し、リュシアンの生白い顔を見つめる。
「ひどく後味の悪い別れ方をしたあの日以来、リュシアンはあなたに拒絶されることを極端に恐れている。そして……人であった頃の生活を思い、懐古の念に駆られるようになった」
人狼はおもむろに首を回らせ、闇に沈んでいる暖炉の方を睨んだ。
「リュシアンの心境の変化を見て、馬鹿げた嘘を吹き込んだ奴がいる。人間の血を断ち続ければ、魔力が弱まって人間に近い体になり……いずれ血を飲まなくても生きていけるようになる、とな。オレもこの世に生まれて久しいが、血を飲まず生き永らえるヴァンパイアがいるだなんて話は聞いたことがない。でもこいつは嘘を信じた。人に戻れる可能性に縋ったんだ」
「その嘘の情報を教えたのというのは――」
「私だよ」
どこからともなく声がした。
火の気のなかった暖炉がちりちりと音を立て始め、灰の中にぽつりと現れた火がまたたくまに大きな炎と化す。それは這うように石の床に出てきて球体となり、まばゆい光を放ちながら宙に浮き上がった。そして火の爆ぜる音と共に言葉を発した。
「ああ……神の家に住まう人間は臭くて敵わんな」
火が意思を持って動き喋っている……にわかには信じられず驚愕に顔を染めているエミリアに、彼は続ける。
「招かれざる者よ。痛い目に合わせてやったというのに、まだ我が主にまとわりつくか」
「エミリア、構うな」
顔色を変えたエミリアを背に隠し、トニトルスはイグニスを睨んだ。
「こんなやつ放っておけ。想定外のことばかり起こるから焦っているのさ」
黄金の瞳をぎらつかせ、吐き捨てるように言う。
「――エミリア・コレット……その身に宿す祈り火の光で我が主を翻弄する悪しき女」
恨みがましい声を響かせ、火は残像を描きながらゆらりゆらりと宙を漂う。そして熱風と共に燦然と燃え盛り、眠るリュシアンの横顔を自らの光で照らし出した。
「憐れな御方だ」身じろぎもしない主人に向かってつぶやき、「まさか我々の敵である修道女に忌み嫌われることを恐れ、自ら人の血を絶つとは思わなんだ。あきれ果てて言葉もない」
「そういうことはリュシアンが目を覚ましたときに直接言え。それができないなら黙ってろ」
トニトルスの苦言に反応することなく、火は目が眩むほどの輝きを放ちながらエミリアに近づいた。
「おぬしとの関係を深めるほどに、我が主は人間らしい感情を取り戻していく……これは私の望むところではない。実に不愉快だ」
エミリアは不快感を覚え、きつく眉根を寄せた。その険しい表情を鮮明に見ようとするかのように彼女に迫ったイグニスは、火花を散らし赤々と燃えながら続ける。
「いいか小娘……運命を見通し、主を正しき道へと導いて差し上げられるのは私だけだ。おぬしの存在は害悪にしかならぬ。疾く立ち去り二度と我が主に近づくな」
「あなたのおっしゃることを聞き入れることはできません。死という別れが訪れる日まで、彼の傍にいると誓ったのです」
「戯れ言を。我が主のことをどれほど愛そうと、クインレスタを裏切ることはできまい。いいかげん諦めないか……“マリアンヌ”。何度転生し再会を果たしても結果は同じ……いつの世もおぬしは私が描いた筋書き通りの行動を取り、我が主との関係を自ら切り捨てるのだ」
火は高笑いする。トニトルスはそのおぞましい笑い声に顔を顰め問うた。
「――イグニス……おまえ、ジャスミンやオルガがリュシアンではない男を選ぶとわかっていたのか?」
「わかっているもなにも……他の男との未来を選択するよう仕向けたのは私だ」
「なんだと?」
「私は暖炉の火であり、蝋燭の火であり、炊事場の火だ。マリアンヌの魂をもった女たちが私を見つめるたびに、呪いをかけてやったのさ……リュシアン・アルベスク以外の男を心の底から愛するようにと。そして暗闇を厭い、邪悪なる者を憎むようにと」
「呪い……」目を瞠り、トニトルスは声を震わせる。「まさか……王族の娘としての人生を終えて、再び転生するまでに400年も掛かったのは……――おまえが……」
「王族の娘……ああ、そなたがジュディと呼んで慕っていた、ジュディス・マデランのことか?」炎が勢いを増し、火の粉を散らしながら天井を舐める。「お察しの通りだ。400年ものあいだ魂が眠り続けたのは、私がジュディスを呪い殺したからだよ」




