128話
苦しげに息をひとつ吐いた彼女は、ゆっくりと拳をかざし祈るような気持ちでもう一度ノックする。
やはり返事はない。
「リュシアン……」
涙に濡れた睫毛を伏せると、重厚な扉に額を擦りつけ弱々しい声で呼び掛けた。
「リュシアン……開けて。お願い……」
すると――その声に応えるように、かちりと錠が外れる音がした。続いて、勝手に扉が細く開く。
廊下に並ぶ壁掛け燭台の火が風もないのに揺れ、室内に伸びた影が震える。ためらいがちに中を覗き込んだが真っ暗で何も見えない。
エミリアは一歩、足を踏み入れる。
「リュシアン?」
呼び掛けに応える声はない。燭台を探そうと壁伝いに歩いていくうちに段々と目が慣れ、家具や調度品の輪郭が薄闇の中に浮かんできた。鎧戸の隙間から差し込む淡い光をたよりに室内中央まできて目を凝らしてみれば、天蓋の下に横たわる影がある。
エミリアは足音を立てぬよう慎重にベッドに近づいた。
そっと覗き込むと、リュシアンがやわらかな枕に頭を沈め横たわっている。顔は紙のように白く、血の通わない人形のようだ。
それを見たエミリアは思わず屈み込み、胸に耳を当てて心臓の鼓動を確かめた。弱々しくゆっくりだが、動いている。呼吸とともに胸元が微かに上下しているのを感じながら、ほっと安堵の息をついた。
ベッドの淵に腰掛け、やつれた寝顔を薄闇越しに見つめる。苦しそうではないが、穏やかともいえない。眉間に薄い縦皺を刻み昏々と眠り続ける彼を前に、ふいに不安が込み上げる。
もう目覚めないのではないか?ずっとこのまま――
エミリアの顔から血の気が引いた。そのときだ。細く開いたままだった扉が動き、廊下の光が水のように勢いよく流れ込んできた。驚いた彼女は我に返りその方を見る。クリーム色の明かりの中に、人の姿をとったトニトルスが立っている。
「エミリア?」
人狼は、廊下の左右を注意深く窺ってから中に入ってきた。闇の中でも迷うことなくテーブルに近づくと、エミリアのために燭台を灯す。
「鍵をかけておいたはずだが……ファヴィラに開錠してもらったのか?」
「いいえ……内側から勝手に開いたの……」
「そうか」彼は蝋燭の火を睨むように見て、「この城で不可思議な現象に遭遇したら罠だと思った方がいい。安易に動かず、オレの名を呼べ。どこにいようとすぐに駆けつけるから」
「罠?」
「ここは魔物が棲まう場所だということを忘れるな」
――不可思議な現象。言われてみれば思い当たる節がある……エミリアは神妙な面持ちで頷き、再びリュシアンを見た。
「血を飲んでいないのね?」
「ああ。……まったく、困った奴だ」
トニトルスもベッドに近づいて、主人の寝顔を見つめる。
「オレたち魔物は本来、ほとんど睡眠は必要としないんだが……これまでにないくらい、長く眠っている。おそらく栄養失調状態になっていることが原因だろう」
指に流れる血をいきなり舐めてきたリュシアンを思い出し、エミリアは哀しみに満ちた表情で唇を噛む。溜息をつき腕を組んだトニトルスは、険しい顔つきで言葉を継いだ。
「もともと人の血液はほとんど飲もうとしなかったが、最近ますます嫌がるようになってな……ここ数日は動物のものすら一滴も飲んでいないんだ」
「そんな……」
「人の血を飲めばすぐ復活できるのに拒みやがる。ここまで弱っちまうと動物の血だけで回復するのは無理かもしれん」
エミリアは眠る彼の胸に顔を埋め、すすり泣いた。
「どうして……どうしてなの?リュシアン……」
「あなたに、元同胞の血を糧とする怪物だと思われたくないんだよ」
トニトルスは指を伸ばし、リュシアンの目元に掛かる髪を爪の先でやさしく払う。
「リュシアンからすでに聞いているとは思うが……あなたはマリアンヌという女性の四度目の生まれ変わりだ。最初は伯爵家の娘、二度目は遊牧民の娘、そして三度目は……――王族の娘として転生した。この王族の娘とのあいだに起こったことを、リュシアンは未だに引きずってるんだ」




