126話
いつもと違う様子に気づいたエミリアは、怯えた顔でリュシアンを見上げる。彼の目が白銀に光っているのを目の当たりにした瞬間、手の中のカードを取り落とし立ち上がった。
危機を感じ離れようとしたがもう遅い――靴のまま片足でテーブルを踏みつけたリュシアンは、逃すものかといわんばかりにエミリアの腕を掴み強引に引き止める。そして怪我をした方の手を取り赤く開いた傷口をうっとりと眺め、そこから流れ落ちる血を濡れた舌でやさしく舐め上げた。
驚愕に目を見開き声を詰まらせていると、リュシアンの美しい顔が無遠慮に迫ってきた。首の後ろを掴まれ更に強く引き寄せられる。
彼はエミリアの白い喉に鼻先を擦りつけ、恍惚の吐息を漏らす。そうしながら彼は甘い声で誘惑するように囁いてきたが、なにを言っているのか理解できない。その言語はこの世界のどの国のものでもなかった。
舌と唇で首筋を愛撫され、エミリアの表情が淫らにとろけていく。弱々しい抵抗を繰り返す彼女を腕に抱いたリュシアンは声なく笑った。薄く開いた唇の隙間に、鋭利な牙が光る。
その切っ先が彼女の柔肌を裂こうとしたまさにその瞬間……リュシアンは突然獣のような叫び声を上げて仰け反り、エミリアを手放した。トニトルスが彼の背後から飛びかかり、首の付け根に噛みついたのだ。
大地を轟かすような咆哮と共に人間の姿になったトニトルスは押し倒したリュシアンの腹の上に馬乗りになり、抵抗する両腕を掴んで石の床に縫いつけた。荒い息をつきながら見上げてくる彼の瞳の色は、すでにいつものアイスブルーだ。
「馬鹿野郎が……」
トニトルスが低くつぶやく。漆黒の蓬髪と濃い影が顔を覆い隠し、表情は見えない。しかし唸るようなその声は怒りに満ちている。
「エミリアを泣かせるな」
そう吐き捨てて立ち上がったトニトルスは体ごと彼女に向き直った。布の一枚も身にまとっていない。全裸である。
「大丈夫か?」
問われたが、エミリアは頷くのが精一杯で言葉が出ない。
「人の姿で会うのは二度目だな」
「こ……」
「こ?」
「子どもじゃなかったのね……」
「がっかりしただろ。ごめんな」
そう言って、トニトルスは褐色の顔に笑みを浮かべる。そのいたずらっぽい笑顔を見て、エミリアは強張っていた表情を解いた。詰めていた息を吐き、胸の前で指を組んだままゆっくりとリュシアンの方に目を向ける。視線の先の彼はようやく我に返った様子で、静かに身を起こし、トニトルスに言う。
「さっさと仲間にしろと急かしてきたくせに、いざとなったらこれか?」
「黙れリュシアン」
舌打ちしたワーウルフは肩越しに振り返り、リュシアンに鋭い視線を向ける。彼は目だけを上げて睨み返し、
「何か着ろ。いつまでも汚い尻を向けるな」
悪態を吐くと、顔を深くうつむけたまま立ち上がる。
「エミリア。今日はもう帰れ」
「リュシアン……」
「帰ってくれ。頼む」
リュシアンはとうとう彼女の方を見ることはなかった。
シーツを被ったトニトルスと共に部屋を出たエミリアは肩を落とし、扉の閉まる音を背中で聞きながら薄暗い廊下を歩いていった。
ジャーメイン城を出たエミリアは、収穫祭で賑わうケンプベルを木立の合間から見下ろした。町の中心を射貫くナックバレー大通りは端から端まで煌々と輝き、太鼓や笛の音色と人々の陽気な声が遠く聞こえてくる。
「今まで、子ども扱いしてごめんなさい」
緩やかな坂を下りながら、エミリアはトニトルスに言う。
「嬉しかったよ。ガキの頃に戻ったみたいで」
ズボンのポケットに手を突っ込んだ彼は、心地よい風を浴びながら目を細めた。
「あなたの前世はみなオレを恐れず傍に置いてくれたが、こんなにもかわいがってもらえたのは初めてだ。今までに会った生まれ変わりの中で、あなたのことがいちばん好きだよ」
長躯を屈め、エミリアの頬に尖った鼻先を軽く押し当てる。そしてそのままいつものように、花の香りのする髪を嗅いだ。
足を止めたエミリアは、慌てて彼の胸元を押し距離を取ろうとする。
「だめよ……そういうことをしたら」
「どうして?いつも喜んでくれるのに」
小首を傾げ、くすくす笑っている。決まり悪そうに目を逸らしたエミリアの肩を抱いたトニトルスは、坂道を再び歩き出した。
「人間の姿のオレを初めて見たとき、ワーウルフだと気づかなかったのか?」
「火の精霊かと思ったの……だってあなたの瞳が、燃える黄金の太陽のように見えたから」
それに、とエミリアは続ける。
「ずっと子どもだと思い込んでいたし……こんなにも美しくて立派な男性とは想像もしていなかったのよ」
それを聞いたトニトルスはかなしそうに唇を曲げた。美しく立派な男と言われて悪い気はしないが、まさかあの性悪に間違えられていたとは。
内心しょんぼりしながら、彼は言う。
「火の精霊は人の姿になって接触してくることはない。だが……あいつは、火の気があるところならばどこにでも現れる。城内にいるあいだは、常に見張られていると思っていてくれ。奴はどうやらあなたのことが気になってしかたないようだからな」
坂を下りきったふたりは、人目を避けつつチャペル・ロードまでやって来た。
ナックバレー大通りの熱気が風に乗って伝わってくるも、この通りはいつもの夜と同じように人通りもなく静かだ。教会の正門が開け放たれているのを遠目に眺めた彼女は、そっと息をついてトニトルスを見上げた。
「オレが行けるのはここまでだ。収穫祭のせいか、今日はクインレスタの力が強すぎる」
立ち止まった彼はエミリアの白い額にくちづける。
「気をつけて」
「――送ってくれてありがとう」
一礼したエミリアは、踵を返す。正門の方に歩いていくその背中に彼は声をかけた。
「いつものを忘れてる」
振り返ったエミリアに向かって、両手を広げる。別れ際、彼女はいつも抱きしめてくれるのだ。
その場から動かず困ったような顔をしているのを見て、トニトルスは拗ねたように唇を尖らせる。
「子どもじゃないとわかったから、もう甘やかしてくれないのか?」
エミリアは眉尻を下げて微かに笑うと、来た道を引き返して彼を抱きしめた。
「また城に来てくれ」
すこし力を入れたら壊れてしまいそうな体をやさしく抱きしめ返した人狼は、耳に唇を押し当てて囁く。
「リュシアンにはあなたが必要だ」
エミリアはなにも言わずにただ頷くと、薄い綿のシャツ越しに彼の背中を撫でた。それから、絡まっている長い黒髪を指で丁寧に梳いてやる。そうしていると、いつもの彼――無邪気で愛らしい黒狼を抱きしめているような気持ちになるのだから不思議だった。




