125話
「リュシアン。この時計……私に預けてくれない?」
「預ける?なぜだ」
「腕のいい時計職人を知っているの。不定期に開かれる蚤の市に店を出しにくるから、修理を頼んでみるわ」
躊躇っているのか、リュシアンはかたい表情のまま黙っている。
するとエミリアは自分の首の後ろに手をやってペンダントを外した。チェーンに下がったクインレスタのメダリオンを彼の前にかざし、言葉を継ぐ。
「預かっているあいだ、これはあなたが持っていて」
リュシアンは受け取ろうとせず首を横に振ったが、エミリアはいつまでも手を引っ込めようとしない。溜息をついた彼は差し出されたそれを受け取り、手のひらを火傷しないうちにすぐ胸ポケットの中にしまった。
「魔物に聖品を押しつけるだなんて……ひどいことをするんだな、君は」
「信用してもらいたいから渡したのよ。大切なものを預けるのは不安でしょう?」
それには答えずリュシアンは、無意識に胸ポケットを押さえた。その中に入っているメダリオンが聖なる力を放っている。
(まずい……)
動きを止めた彼は、冷や汗を額に滲ませ胸の裡でつぶやいた。エミリアの祈りが込められているせいかこの聖品は、考えていたよりもずっと強烈な祓いの光を宿しているようだ。のこりわずかだった魔力がみるみるうちに浄化されていく。
「――リュシアン?」
甘やかな呼び声が耳の中で輪を描くように回り出した。異様な喉の乾きに襲われ、意識が遠のきかける。
「リュシアン……大丈夫?」
「構うな。なんでもない」
我に返り、か細い声で答えたリュシアンは彼女から顔を背け立ち上がった。それに反応し、背中の毛を逆立てたトニトルスが低く唸る。
この狼は、リュシアンの異変を早々に察知していた。賭け事の話が出たときあたりから徐々に様子がおかしくなり、エミリアが自分の血液を賭けると言い出してからはかろうじて理性を保っている状態に見える。飢餓状態の上級種が餌を前にどんな行動を取るかはわからない。いざとなったら身を挺してエミリアを守るつもりだった。
敵意ある狼の視線を感じながらリュシアンは、溜息まじりに言った。
「ああ……喉が乾いた。君も、腹が減っているだろう。サンドイッチ片手にゲームをするとしようか……」
「無理しないでリュシアン……」
リュシアンは頷いたが、一歩を踏み出せずテーブルに手をつく。その拍子にトランプが落ち、床に散らばった。エミリアは咄嗟に腰を浮かせ、彼の体を支える。
しかしリュシアンは腕に絡む白い指を乱暴に払い除けた。彼女は目を丸くし、行き場をなくした手を引っ込める。
「――ごめんなさい……」
消え入りそうな声で口にすると、茫然とリュシアンを見つめた。
互いに身じろぎもせずに佇むなか、エミリアが先に動いた。顔をうつむけて静かに屈み込み、床に散らばったカードを片付け始める。
その気配にリュシアンは伏せていた睫毛を上げた。目が自然と、彼女の首筋に吸い寄せられる。
雪のように白く薄い肌。そこに微かに透けて見える、青い血管。すこし傷をつければすぐに、輝く赤色が流れ出てくるだろう。
(美味そうだ……)
彼は無意識に舌なめずりした。視線がゆっくりと鎖骨をなぞり、胸元を捉える。襟刳りの広い簡素なブラウス。首から肩にかけての、魅惑的な美しいライン。
エミリアはいつも無防備だ。人の生き血を好む化け物が目の前にいるというのに、肌を惜しげもなく晒している。こちらの気も知らず血をやるなどと簡単に言い、警戒することもなく自由に振る舞う……
襲われるはずがないと思っているのか?どこかの本に書かれている通り、ヴァンパイアは十代の処女の血しか好まないとでも?リュシアンは目を細めエミリアを責めるように見る。
気付いたエミリアが訝しげな眼差しを彼に向けた。
「リュシアン?」
もう返事すらまともにできない。噛みしめた奥歯を鳴らし彼女から目を逸らしたリュシアンは崩れるように椅子に座ると、震える手をきつく組み、テーブルを睨んだ。
「片付けておくから、ベッドで休んでいて」
やさしい声で言いながら、折り重なったカードの山をかき集めたときだった。エミリアは突然の鋭い痛みに驚き、小さく声を上げた。
リュシアンが弾かれたように顔を上げる。見れば、彼女の人差し指に切り傷ができ血が滲んでいた。
微かに漂ってきた馨しいにおいに、リュシアンの目の色が変わる。
「――エミリア」
陶然とした表情で名を呼びながら彼はゆっくりと立ち上がった。




