124話
「却下する」
ぴしゃりと言い、リュシアンは険しい表情でエミリアを見た。
「瀉血療法を何度か受けたことがあるの。だから、どこを切ればいいかはわかっているわ。あなたが勝ったら、抜いた血は差し上げます」
予想もしていなかった言葉だった。突如として酷いめまいに襲われ、彼はこめかみを押さえた。エミリアの手の甲に薄く見える血管に視線が吸い寄せられる。それと同時に、人間の生き血に対する執着と渇望が堰を切ったように溢れ出てきた。
「なにをためらってらっしゃるの?私の血は今のあなたにとって、じゅうぶん価値があるはずよ」
襲い来る衝動に抗い、彼は平静を装って言葉を吐き捨てる。
「修道女の血など不味くて飲めたものじゃない」
「贅沢を言わないで。不味くても腹の足しにはなるでしょう」
エミリアの愛らしい唇から発せられる言葉に脳が揺さぶられる。これまでに感じたことがないほどの飢餓感と喉の渇きを覚え、リュシアンは何度も生唾を飲んだ。
エミリアは貞淑であることを神に誓った修道女だ。男を知らない。
喉を滑り落ち、体の隅々まで潤す新鮮な処女の血……その甘美な味を思いながら彼は唇の隙間から冷たい吐息を漏らし、舐めるような目でエミリアの体をなぞった。その目の奥に、白銀の炎が小さく燃えている。
「私は血を賭ける。あなたもこれに見合うものを賭けてちょうだい」
その声に我を取り戻した彼はエミリアから顔を背け、吸血衝動を否定するかのように強く頭を振った。
「もうよせ。くだらない遊びのために自分の血を差し出すだなんて馬鹿げている」
「くだらない遊び?クインレスタのメダリオンは私たち修道者にとって誓いの証でありとても大切なもの。それを賭けさせようとしたのは、遊びを越えた真剣勝負をしたかったからではないの?」
ぐっと声を詰まらせ、リュシアンは黙り込む。
「困らせるつもりでメダリオンを賭けろと言ったのなら、悪ふざけが過ぎたわね」
エミリアは目に薄く涙を浮かべて彼を見つめた。寝そべったトニトルスは床に顎をつけたままちらりとリュシアンを見上げ、馬鹿にするようにふんと鼻を鳴らす。
「さあ……賭けてちょうだい、リュシアン。決められないなら私が決めてあげましょうか」
言いながら彼の姿を眺めたものの、これといったものは見当たらない。まさかブラウスの袖口に光る美しい飾りボタンをちぎって差し出せと言う訳にもいかず――エミリアは唇をへの字に曲げる。
難しい顔で黙っている彼女にリュシアンが言った。
「くだらない遊びと言ったことは謝る。……すまなかった」
エミリアの反応を待たず、彼は言葉を続ける。
「こんな空気じゃおもしろくない……今日はもうよそう」
「いやよ」
聖具を軽々しく見たのがそんなに癪に障ったのか、挑発に乗って冷静さを欠いているのか……エミリアは勝負を放棄することを許そうとしない。
「――そうか。わかった」
短く言って肩を落としたリュシアンは、ベストのポケットから懐中時計を取り出す。細いチェーンを外すと、テーブル中央に置いた。
「私はこれを賭ける」
エミリアは目の前で鈍く光る古い時計を見つめる。リュシアンは透き通るような白金色の睫毛を伏せて言った。
「800年前……前世の君がくれたプレゼントだ。形見としてずっと、命のように大事にしてきた。君がメダリオンを通して神の愛を感じるように、私もこの時計を通して彼女の愛を見る。だから血ではなく愛の証を賭けろ」
愛の証よりもエミリアの血が欲しい。乾き切った喉を潤したい――欲望が暴走しそうになるのを必死に抑えながらリュシアンは、無意識に奥歯を噛みしめた。白くなるほど握り込んだ手が微かに震え、額には冷たい汗が浮いている。
彼の本心などつゆ知らず、懐中時計に目を落としたまましばし沈黙していたエミリアであったが、やがて居住まいを正し頭を垂れて言った。
「私が大人気なかったわ。ごめんなさい……」
そしてふたたび懐中時計に目を遣ると、指を伸ばして手に取る。止まったり動いたりを繰り返している秒針を見つめた彼女は、ぽつりとつぶやいた。
「壊れてる……」
文字盤を覆っている傷だらけの硝子がやわらかく光る。
懐で大切に守られ温め続けられた愛をその光の中に見たエミリアは、愁眉を開きリュシアンを見つめた。前世の自分が贈ったものを、ずっと大切に持っていてくれた彼の気持ちが嬉しかった。




