118話
「ゴドリック様を失脚させることを、私が望んでいると思っているのですか?」
その冷え冷えとした声に気圧された彼は言葉を呑み唇を噛んだ。
「どいつもこいつも私のことを馬鹿にしおって……」
トマスは苛立ちを抑えようとするかのように大きく息をつき、血走った目でクインレスタの聖像を睨み上げる。
「無能と思われたまま終わってなるものか。大主教に私という存在を認めさせ、必ずやそのお心を変えてみせる」
誰にともなく口にして早足に祭壇を降りると、身廊の床に膝をついているギルバートの前に仁王立ちになった。
「――大主教の寵児エミリア・コレットは神の名を穢し教会の信頼を失墜させる悪しきもの。必ずや罪の証拠を掴み、彼女を聖杯会から永久に追放せねばならない」
「神父様……」
「神は我らに剣と盾を与えたもうた。古城に棲まう悪魔に魅入られてしまったシスター・エミリアの魂に神罰を下すため……引き続き私の手となり足となって、彼女の動向を追いなさい」
その翌日。
厳命を受けたギルバートはさっそく、夜も明けきらぬなか自室を出てきたエミリアの後を尾行した。
そして今、彼は低木の陰に隠れ、枝葉を広げた大木の下でくつろいでいるエミリアとリュシアン・アルベスクを監視している。だが、特に何も起こらない。リュシアンが厚手のコートを羽織っているのだけが奇妙に見えるが、ふたりはただ芝の上に寄り添って座り、何やら楽しそうに話をしているだけだ。
エミリアはあの男と恋仲で、こうして秘密裏に逢瀬を繰り返し睦み合っているのだとギルバートは頑なに思い込んでいた。
いつも人けのない森を選ぶのも、隠れて互いの体を貪るために違いない。小さく舌打ちした彼は、濡れた桃色の花弁のようなエミリアの唇を思い出し奥歯を噛んだ。あの淫靡な唇で愛撫し悦ばせているのかと考えただけで頭がどうにかなりそうだ。
昨年の夏、沐浴するエミリアを窓硝子越しに盗み見てからというもの、彼はなにか悪いものに取り憑かれたような気がしていた。禁欲的な修道服を引き裂いて手酷く犯す夢を見るたびに震えながら自分の体を鞭打ったが、エミリアの甘ったるい嬌声や薄く汗の浮いた肌のしっとりした感触は現実かと錯覚するくらいに生々しく、どうしても忘れられない。
(男をたぶらかす淫婦め……)
ふくよかな胸と、優雅な曲線を描くくびれた腰。美しく豊かな亜麻色の髪が流れ落ちる背中、白くまろい臀部――あの扇情的な肉体でリュシアン・アルベスクを誘惑したに決まっている。姦淫は罪だ。決して許されないことだ。そのうえ相手が悪魔と噂されていた人物ともなれば、投獄されるだけでは済まされない。彼女は異端審問に掛けられ火刑に処されるであろう。
ギルバートはその目を、砥がれた刃物のごとく光らせた。本能の赴くまま野蛮な獣のように男と交わるエミリアの、なまめかしい姿態を思い描きながら。
陽が傾き始める。共に城に戻り夕食でもどうかとさりげなく誘ったが断られ、リュシアンはひとり帰路についた。
石造りの橋の中央で黒いパラソルを畳んだ彼はふと立ち止まり、濃厚な青が広がった空を見上げ耳を澄ませる。
もう気配は感じない。
最近、エミリアといるときに何者かの視線を感じるのだ。しかし昼間は魔力が弱く、距離を取られるとその人物を特定することができない。
エミリアは修道院の門限を律儀に守っているため、帰る頃にちょうど陽が沈みかける。別れてから辺りが暗くなりこうして魔力が戻ってくるのだが、そのときにはすでに不穏な気配は跡形もなく消えている。不気味な古城の住人である自分を追尾しているのではなく、どうやらエミリアの動向を監視しているらしい。
リュシアンは首に巻いたクラバットを解き、襟元を寛げながら城内に入った。すると大広間の扉が開き、ファヴィラが出迎えてくれる。
「お帰りなさいませ」
リュシアンは軽く頷いて返すと、コートを脱ぎ手袋を外しながら問うた。
「体の方は?」
「問題ございません。お食事をご用意しておりますのでお召し上がりください」
そう言って膝を折り一礼した彼女の血の気のない唇を見て、リュシアンは溜息を漏らす。この妹はすぐに無理をするのだ。そのうえ、休めと言っても決して聞き入れようとしない。
着替えを終えて食事室に入ると、ファヴィラが壁や食卓の燭台に火を灯し終えたところだった。黙ってテーブルについたリュシアンの手元のグラスに、彼女は人間の血液の入ったデキャンタを傾ける。
その瞬間リュシアンはグラスのふちを手で覆い、それを阻んだ。
「いい。それはおまえが飲め」
短く、だがはっきりとした口調で告げる。
ファヴィラは何も言わなかった。目礼して後ろに下がる。デキャンタを手に去っていくのを横目に捉えた彼はテーブルナプキンを広げた。
今宵食卓に用意されたのは、マッシュポテトとクレソンが添えられたラム肉のソテーだ。パンの入った小さな籠の隣には、果物が盛り付けられた真鍮の器が置いてある。
彼はまずその器の中の林檎を手に取り、前歯の先で齧った。
不味い。まるで湿った砂を口に含み咀嚼しているかのように感じる。
林檎を置いた彼は、緩慢な動作でカトラリーを手にした。メインの皿に目を落とし、ナイフの先端を肉に差し込む。
そのときだ。
「また人間ごっこしてやがるのか」
爪音を立てながら、黒狼が室内に入ってきた。




