113話
その夜、リュシアンとエミリアは共に食卓を囲んだ。
美しく繊細な料理が彼らのために用意された。トマトとアスパラガスのテリーヌ、じゃがいもの冷製クリームスープ、香草をまぶして焼いた川魚……聞けばすべてファヴィラの手作りだという。
すばらしい夜だった。他愛のないおしゃべりは途切れることなく紡がれ、蓄音機が奏でる管弦楽器の音色と、開いた窓から吹いてくるあたたかく乾いた夜風がふたりを心地よく包み込んでいた。リュシアンは終始穏やかな笑みを湛えており、エミリアはそれが嬉しかった。彼女の頬がほんのりと桃色に染まっているのは、シャンパンとワインをすこし口にしたからという理由だけではなさそうだ。
食後、彼らはどちらからともなく長椅子に並んで座り、まるで恋人のような距離感で語り合った。
「それで……この先どうするつもりなんだ」
「どうする、って……」グラスをテーブルに置き、リュシアンの瞳を覗き込む。「どうもしませんよ」そう答えて、ふふと笑った。
酒が入っているからか、いつもよりもリラックスした様子のエミリアはリュシアンの方に頭を寄せる。彼は当然のように肩を貸してやり、もたれかかってくる体を受け止めた。
「君が神のしもべにふさわしくないと、聖杯会の聖職者や修道会の連中が騒いでいるだろう。このままでは追放されてしまうんじゃないか?」
「私は人生を左右する重要な選択を終えました……この先どうなるかは神のみぞ知ることです。あらがわず、流れに身をゆだねます」
のんびりした声で答えるエミリアに、思わず語気を荒げる。
「呑気なことを言っている場合か。もっと危機感を持て」
彼女はすこし顔を上向け、澄んだ瞳をリュシアンに向けた。
「神の家で跪かなくとも祈りは届きます。大事なのは修道者で在り続けることではなく信仰心を失わないことです」
「悪いことは言わないから、頭を下げてでも修道会に留まった方がいい。私に肩入れしすぎるな。そのうち神の怒りを受けるぞ」
忠告するリュシアンを見つめたままエミリアは絶えず微笑んで、
「罰せられてもかまいません。それが神の答えならば」
そう囁くと、甘えるように肩に頬ずりする。苦しげに目を閉じたリュシアンはこめかみを押さえ溜息をついた。
「神に伝えてくれ……君の罰はすべて私が引き受けると」
「あなたって本当に、お優しい方ね」
エミリアは美しい菫色の目をうっとりと細める。それを見た彼は鼻で笑って、彼女の小さな頤を指先で撫でた。
「魔物の甘言にそこまで気をよくするとは、単純だな君は」
「いまさら悪ぶってもだめよ……あなたがいかに愛情深く純粋な方か、900年の年月が証明しているんですもの」
その言葉を聞いた途端、リュシアンはなにか苦いものでも噛んだような顔になる。
「純粋だと?からかうのはよせ、エミリア……」
「からかってなどいません。何度死に別れてもひとりの女を愛し続ける男を、純粋で愛情深いと言わずして何と言うのです」
リュシアンはかぶりを振って、
「マリアンヌを探す原動力となっているのは――執念、執着……そういったものだけだ」
「愛しているからではないのですか?」
言われた彼は唇をへの字に曲げる。エミリアがさらになにか言おうとするのを手で制し、彼は口を開いた。
「君が勘違いする前に言っておく。いくら亡き妻の生まれ変わりといえど、修道女である君に対してそういう感情は抱いていないからな」
「これまでの生まれ変わりとは男女の関係にあったというのに、私のことは求めてくださらないの……?」
「魔物が神のしもべを恋い慕うなど有り得ん。たとえ自分が人間であったとしても修道女など願い下げだ。身持ちが堅い女はつまらんからな……」
エミリアが悪戯っぽい目つきで見つめてくるので気まずそうに視線を逸らし、渋い顔になりながら言葉を続ける。
「見切りをつけるなら早い方がいいぞ。私はこの通り自分勝手で薄情だ。心優しい君の手には負えん」
「いいえ……私は優しくなんてありません。あなたが思うよりもずっと利己的で邪悪な人間です」
リュシアンはその発言に驚いて目を丸くし、彼女の顔を覗き込む。
「どうした……なぜそんなことを言う?君は、自分が不利な立場になるとわかっていながら、私たちの秘密を誰にも話さずにいてくれたではないか」
エミリアはリュシアンの手をそっと握った。そして指の腹で彼のすべらかな肌を撫でながら言った。
「――迷いました。あなたの秘密を神父に話すか、否か」
「迷ったからなんだというんだ。君は秘密を守り通した。トニトルスの正体や妹たちの悪事も明かさずにいてくれた……私はそれを本当に、ありがたく思っている」
彼女は目を伏せたまま、儚げな笑みを唇に浮かべた。
「あなたの命と我欲を天秤にかけたという事実を、私は生涯忘れません。仲間からの信頼、教会における地位と名声……手に入れたものを失うことを恐れ、自己保身のためにあなたを裏切ろうとしていると気づいたときに実感しました。ロメネル島の小さな教会で、神のことのみを考え祈りの日々を過ごしていた自分はもういないのだと」
「……ケンプベルに来たことを後悔しているのか?」
問われたエミリアは首を横に振り、
「ここに来るさだめだったのです。神と己を知るために。そして、あなたに会うために」
静かにそう言うと、もたせかけていた頭を上げリュシアンを見つめる。
「見つけ出してくれてありがとう」
「エミリア……」
「もう二度と迷いません……どんなことが起ころうと、この心はいつもあなたと共にあります」
リュシアンはエミリアの頬に触れ手のひらでやさしく包み込んだ。
みずみずしく輝く菫色の双眸でまっすぐに見つめられると、愛おしくてたまらなくなってしまう。そして思うのだ。聖と邪の関係であるがゆえ恋人や伴侶として結ばれることはないが、それでもかまわない……ただ彼女の宝石のような瞳の中に、いつまでも映っていたいと。
秘めたる愛に苦しみながらもリュシアンは、エミリアの存在によってぬくもりを取り戻した心がこれまでにないほど満たされているのを感じた。
「私の心も常に君と共にある」
彼は無防備な体をおもむろに抱き寄せ、優雅に流れるやわらかな髪にくちづける。
「リュシアン様……」
「――そんな呼び方、やめてくれ。私のことは“リュシアン”と」
耳元で囁かれ、エミリアは恍惚となりながら微かに頷いた。彼の背中に腕を回し、やさしく抱きしめ返す。
「……リュシアン……」
彼の首筋は、月下香のにおいがした。その甘く馨しい香りをなぜか懐かしく思いながらエミリアは、涙に潤んだ目を閉じる。




