111話
真鍮のドアノッカーの音がエントランスホールに重々しく響いている。
急いで階段を駆け下りた狼であったが、大扉を前にするなり突然立ち止まり、鼻の付け根に皺を寄せた。
それもそのはず……鼻が曲がるかと思うほどの強烈な臭いが扉の向こうから漂ってくるのだ。訪問者はエミリア・コレットに違いないのだが、開けるのをためらうほどである。
嗅覚が鋭い狼のままではとてもじゃないが迎え入れることはできない。従者の作業場に飛び込んだ彼は再び人間の姿に変化し、すばやく服を身に着ける。指で鼻先をこすりながらエントランスに駆け戻ると、意を決したように勢いよく大扉を引き開けた。
褐色の美丈夫を前にしたエミリアは目を丸くする。初めて見る顔に戸惑っているのだろう。
「お待たせして申し訳ありません。ようこそおいでくださいました」
トニトルスはできる限り平静を装って言うと、視線をエミリアの手元に下ろした。
臭いの発生源は彼女が持っているラタンバスケットだ。そんなものを持ち込んで一体どうするつもりなのか……トニトルスはじっと籠を見つめる。その視線に気づいたエミリアが真顔で言う。
「リュシアン・アルベスク様への贈り物です」
それを聞いたトニトルスはあやうく笑ってしまうところだった。それを堪え、エミリアをリュシアンの私室へ連れて行く。
「君か。……懲りない人だな。なんの用だ」
長椅子に背を預けて本を読んでいたリュシアンは、目だけを上げた。
咎めるような眼差しにも臆することなく、エミリアは大股でずかずかと室内に入ってくる。その後ろ、トニトルスが逃げるように部屋を出て行くのが見えた。
その行動の意味を、リュシアンはすぐに理解できない。本に視線を戻した彼は、淡々とした調子で問うた。
「教会からの書簡を持ってきたなら、テーブルの上に置いておけ。後で読む」
佇み口を噤んでいるエミリアを前に、一方的に話を続ける。
「城に棲む者の真実を知って、みな驚いていただろう。私の正体を見破った君は町の英雄だな。失った信頼を取り戻せてよかったじゃないか。それで、私にはどんな刑が下されるんだ?絞首刑か?火あぶりか?」
「勝手にあなたの私物に触れたこと、そして、貴重な品々を損壊してしまったことを深くお詫びします。申し訳ありませんでした」
問いには答えず謝罪を口にしたエミリアは、恭しく一礼する。そしてベルトに下げたポーチから、あざやかな青紫色の宝石がついた指輪を取り出した。驚いたように目を瞠っている彼の方にそれを差し出し、ふたたび唇を開く。
「我が家に代々受け継がれてきた家宝です。これひとつでは損害額を満たせないとは存じますが、価値のあるものをこれしか持っておらず……申し訳ございません。不足分は後ほど必ず」
「弁償などしてくれなくて結構だ」
表情を強張らせたリュシアンは口早に言うと、手元の本を乱暴に閉じてエミリアを睨み上げる。
900年前、彼はマリアンヌからこの指輪を見せてもらったことがある。ナダリス帝国を支配していたミュリアス家の直系が代々受け継いできたものであり、かつては歴代の皇帝が肌身離さず身につけていたとされる代物だ。つまり帝位継承者の証である。
指輪を飾る宝石はウィオライリスと呼ばれる、ナダリス帝国の鉱山でしか採れない希少石だ。帝国は海の底に沈んだため採掘は二度と叶わず、現存するのはごくわずかだといわれている。そのなかで品質が良いものとなると数はもっと少なく、もちろん皇帝の指輪に使用されているような純度と希少性の高いウィオライリスはひとつも存在しない。
歴史家や王室鑑定士に見せたら泡を吹いてひっくり返るくらいにめずらしく価値のあるものを、金銭が用意できなかったからといってこんなにも簡単に手放そうとするとは……リュシアンは顔から血の気が引いていくのを感じた。
「失くす前にしまっておけ。壊れたのはがらくたばかりだから気にするな」溜息まじりに、彼は言葉を継ぐ。「その指輪は絶対に手放してはいけない。あとで高名な鑑定士に見てもらえ。君はその価値を正しく知っておくべきだ」
エミリアは指輪を差し出したまま固まっていたが、やがて目を伏せ、ハンカチーフに包んだそれをポーチに収めた。
貴重な品がきちんとしまわれたのを見届け、密かに胸を撫で下ろしたリュシアンはようやく表情をやわらげた。背凭れから身を起こし居住まいを正した彼は、エミリアが手に提げている大きなバスケットを見遣る。
「ところで、その籠はなんだ」
尋ねられたエミリアは神妙な面持ちを崩さずに言った。
「リュシアン様のためにご用意したものです。どうぞお受け取りくださいませ」
静かに言葉を紡ぐと、持っていた蓋つきのラタンバスケットをテーブルの上に置く。
その瞬間、リュシアンは眉間に皺を寄せた。本当に微かだが、彼女が入って来てから嫌な臭いがする。その原因が籠の中に入っているものだと悟ったのだ。




