110話
「やっぱりな。そんなことだろうと思ったぜ」
トニトルスは苦々しい顔になる。咎めるような視線を受けた火焔は威嚇するように激しく燃えた。
「飢餓状態が長く続くとヴァンパイアは自分の意思でなく本能で血を求めるようになる。つまり人体に近づき人であった頃の感覚を取り戻すどころか獣同然に成り下がるということ。箍が外れてしまえば誰にも止めることはできぬ。無意識のうちに人間や家畜を襲い、食事をたっぷりと楽しみ……我に返ったときには血の海だ。吸血せずにはいられぬ己に失望し、魔物として生きるしかないのだということを身を以て知れば、人間のように生きたいなどという戯けた夢も見なくなるであろう」
地響きのような声を轟かせたイグニスは、暖炉の煉瓦を火の舌で舐めながらさらに続ける。
「主はさぞやお心を痛めるであろうな。私も主の苦悩を望んでいるわけではないが、これも偉大なヴァンパイアとなるために必要な過程……存分に痛みと絶望を味わっていただこう」
「さすがは地獄王の子。絶対服従の契約を交わした主人さえも欺くか」
「欺く?ひどいことを言うのはよしてくれたまえ。自身の不利益を承知で憎まれ役を買って出ているというのに、感謝の一言もなしか?主のため仲間のために尽くしてもこの仕打ち……敬われるどころか謗られるとは思わなんだ」
嘆きの声は涙に濡れているようにすら聞こえたが、それに反して火の体は愉しそうに踊っている。暖炉からこぼれて燃え盛り、うねりながらいくつもの火柱を上げた。
「いつまでもそうやって自分に酔ってるといい。あのひとの存在を否定しているのはおまえだけだ。この城に味方はひとりもいないと思え」
「それは残念だ」
「どんな思想や野望を持とうと勝手だが、間違ってもあのひとを傷つけるなよ」
イグニスは暖炉で黒焦げになった薪をからから鳴らし弄びつつ、独り言のようにつぶやく。
「魔物であると知っても離れようとしない厄介な人間……毒婦マリアンヌの生まれ変わり、エミリア・コレット。このまま排除できなければ私の書いた筋書きが台無しになるやもしれぬ……ああ、神の奴隷ごときがこの私の邪魔をするとは。どうしてくれよう」
「妙な真似をするなと言ってるのがわからんのか老いぼれめ。エミリアを傷つけたらただじゃおかないぞ。水ぶっかけてやるからな」
「なぜ庇い立てする?我らに禍いを運んでくるだけの女に守る価値などなかろう」
「あるさ。これまであのひとは永遠を望まなかったが今度こそは、ヴァンパイアとなってリュシアンと共に永遠を生きると言ってくれるかもしれない。そうなればあいつも魔物としての覚悟を決めるはずだ」
「愚かな狼め。愛だのなんだのというくだらぬ感情は魔力を衰退させる。本来のお力を取り戻していただくため、人間的情緒はすべて捨ててもらわねばならぬのだ。この私が、主の中に未だ燻る過去への未練を断ち切り、思考や振る舞いを魔族としてふさわしいものに変えてみせよう」
「肉体は魔物なれど、お兄さまは、人間の心を持っている……」
薄氷を思わせるファヴィラの声が響いて、火と狼は話すのをやめた。
「お兄さまのお心は変えられないわ。これからもずっとあの御方の傍にありたいとお思いになるはず。誰にも邪魔することはできない」
「黙れ小娘。我が主は冥府の底よりいでし軍勢を率い、神の創った世界を滅ぼす偉大なヴァンパイアとなるべき御方だ。ひとりの女に翻弄されているのを黙って見ているわけにはいかん」
「いちいち仰々しい奴だ」
トニトルスは饒舌なイグニスを鼻で笑いとばし、
「おまえはリュシアンに依存しすぎなんだよ」
「主がもっと深い闇に堕ちて来るのを、そなたも心待ちにしているのではないのか?」
「ああ。でも、あのひとも一緒でなければ意味がない。だからためらってないでさっさと魔族の仲間入りをさせちまえばいいとリュシアンに再三言っている。オレはあのひとが好きだ。あのひとと永遠の刻を生きることを夢見て、あいつについてきたようなものなんだ」
「――ああ、そなたもマリアンヌに執着するか。ワーウルフの末裔ともあろうものが犬のように人に懐くとは……なんと嘆かわしい」
落胆したように火が勢いを弱めた。その次の瞬間、彼らは同時によそ者の気配を察知し押し黙る。
暖炉の炎が消え、辺りが薄闇に包まれるなか、ファヴィラが吐息のように囁いた。
「誰か来た」
トニトルスには城を訪ねてきた者の正体がわかっている。甘く、懐かしい匂い。しかしその香りと共に、とても嫌な臭いも混じっている。
「なんだ……?」
つぶやいた彼は立ち上がると同時に狼となり、着ていた服を蹴散らしながら部屋を出ていった。




