109話
「またおまえか」
トニトルスは火の輝きに振り向き、あきれ顔で言葉を吐き捨てる。
「どこにでも現れやがって。入るならノックくらいしろ」
「私は火。火は世界の根源。私はあらゆる場所に存在する」
イグニスは爆ぜながら赤々と燃える。その熱を浴びた彼は険しい表情で舌打ちした。
「すいぶん浮かれてるじゃないか、裏切り者」
「裏切り?私がいったい誰を裏切ったと言うのかね」
「しらじらしい野郎だ……」
低く唸るワーウルフの顔を明るく照らしながら、火は愉快そうに声を上げる。
「まさか主人を裏切ったとでも?ははは……おもしろいことを言う。私ほどあの御方に忠実な者はおらぬであろう」
「おまえのやり方は好かん。リュシアンを玩弄するな」
「弄んでなどいるものか、人聞きの悪い。私は未熟で愚かな主に正しい道を示し導いて差し上げているまで」
「道を示すだと?偉そうに」
「それが私の役目だ。ずっとそうして主を支えてきた。進むべき道を外れそうになったときには助言し、足元に転がる石あらばきれいに“取り除いて”……」
流れるように言葉を紡ぎながらイグニスが笑う。最後の一言で確信を得たトニトルスは語気を強めて言った。
「400年前の悲劇を引き起こしたのはやはりおまえか。あのひとがあんなに酷い言葉をリュシアンに言うだなんてどうにもおかしいと思ったんだ」
「いったい何のことだね」
「しらを切るな。おまえがあのひとに『化け物』などと言わせてリュシアンと仲違いさせたんだろ」
ぱちぱちと火の粒を弾けさせながら、炎が踊る。
「さすがは狼……よく鼻が利くことよ。かなわんなあ、まったく」
「下衆が」
「あれだけ酷く罵られれば、溺愛しているとはいえさすがに許すことはできまいと思っていたのだが……私の誤算だった。我が主が抱く恋慕の情はだいぶ根深いようだ」
ファヴィラは難儀そうに上体を起こし、揺らめく火を見つめて問うた。
「メトゥスをけしかけてエミリア様を襲わせたのはあなたなの?」
質問には答えず、イグニスは笑うように激しく震えながら燃え上がる。
「お嬢さん……ひとついいことを教えてやろう。もう二度とこんな目に合いたくなければ人間的な感情に囚われぬことだ。人の性質に近づくたび、もろく、壊れやすくなるぞ」
「はぐらかさないで答えてちょうだい……あなたがメトゥスに呪いを――」
「くだらない話はここまでだ。私はそなたらに警告しにきたのだよ」
ファヴィラの問いかけを遮ったイグニスは、急に声を低め言葉を継いだ。
「主とエミリア・コレットの結びつきが強まりつつある。ただ傍観していれば、我らは主人を永遠に失うことになるぞ」
「それは大変だ!」
大袈裟に叫んだトニトルスは皮肉めいた笑みを唇に浮かべ、
「お得意の呪術であんたがなんとかしてくれよ」
甘えた声で言うと、太陽の光を閉じ込めたような黄金の目を細める。
「神に愛され、祈り火の加護を授けられたあの娘には私の術が効かぬ……」
火は恨めしそうにつぶやいた。
「それゆえどんなに邪魔でも呪い殺すことができぬのだ。腹立たしいことに催眠すらすぐに解けてしまう。このままでは運命の結び目を断ち切ることができない……彼女との愛に溺れるほど、主は己の性質をますます忌み嫌い、以前にも増して人としての生に執着するであろう。百年も生きられないような軟弱な生物に戻りたいと望むなど、魔物としてあるまじき思想。必ずや考えを改めさせねば」
「今更なにを言っている?長期にわたり人間の血を断てば魔力が底をつき人体に近い構造になると懇切丁寧に教えていたじゃないか。人間らしい生活を営みたいというあいつの願いが成就するよう祈ってるんじゃないのかよ……慈しみ深い火の精霊さん?」
トニトルスは乾いた笑い声を放つ。溜息のように大きく火を噴き上げたイグニスはいつになく不機嫌そうな口調で言った。
「あんなもの、無知な人間の戯れ言に決まっているではないか。主には今一度ご自分の性を知り現実を直視していただかねばならぬ。だからこそ根拠のない話と知りながらもお伝えしたのだ」




