108話
エミリアは苦悶に顔を歪め、唇を噛みしめる。そして崩れるように床に膝をつき、深く項垂れた。
世の理から逸脱し魔道に生きる者は神の敵。今ここでリュシアンの正体を明かし教会側につけば、信頼は回復するだろう。ギルバートに奪われかけている副助祭の役職を取り戻すことも可能かもしれない。
「なにを躊躇っているのですか?私は神の代弁者……恐れず、何もかもをお話しなさい。己の罪を認め改心する者を神は救ってくださる」
エミリアの耳にトマス神父の言葉がやわらかく響く。その声だけは以前と同じく、慈愛に満ちている。
この機会を逃せばもう二度と信頼回復のチャンスはめぐってこない。
神父の手を取るべきだ。いまならまだ間に合う。壊れた関係は修復され、すべてが元通りになる……
そうとわかっていながらも、エミリアは首を横に振った。
「――アルベスク様は善良な方です」
「あなたはあの化け物に誑かされている。目を覚ましなさい」
「私が彼と親交を深めているのは事実ですが、不適切な関係などではありませんし、神の教えに背く行為もしておりません。あの方は私の大切な友人……友と散歩やチェスをすることが罪となりましょうか」
かたく閉じたまぶたをそのままに、消え入りそうな声でそう続けた。
聞き届けた神父は広げていた腕をゆっくりと下ろし、充血した双眸で彼女を見据えたまま静かに言い放つ。
「道を違えることになるとは残念です……シスター・エミリア。処分は追って伝えます。聖堂での礼拝は控えるように」
身じろぎもせずエミリアは、薄く開いた目で傷だらけの床板を見つめた。神父の靴先が視界から消える。続けて扉の閉まる音がした。彼女はしばらくのあいだ、その場から動けずにいた。
とぼとぼと日が暮れはじめたころ、トニトルスはファヴィラの寝室を訪れた。
鎧戸が閉められた室内は薄暗く、乾いた草花の甘いにおいがする。家具は少ない。天蓋つきの古びたベッド、分厚い本や紙で散らかったテーブル、そして小さなチェスト――そのチェストの上には空っぽの花瓶が寂しく置いてある。猫足の長椅子が部屋の隅にぽつんとあり、踵の壊れた古い靴が脱ぎ捨てられているのが見える。
彼は床に視線を走らせたが、怪しげな呪術や儀式を行った形跡はない。ただ、窓際の床に巨大な円陣が描かれ、その中央に血で濡れた黒い羽が複数貼りついている。エミリアを見守っている、使い魔の鴉たちのものだろう。
部屋の主は薄汚れたシーツに横たわっていた。棺に納められた死体のように体をまっすぐに伸ばし、胸の上で指を組んでいる。
トニトルスが近づくと、彼女は薄く目を開けた。
「やっと目を覚ましたか。体の調子は?」
彼はもつれた黒髪を掻き上げつつ、ベッドの淵に腰掛けて尋ねた。
「いいわ」
ファヴィラはかさついた唇で答え、ほとんど抑揚のない声で言葉を継ぐ。
「お兄さまはまだお怒りね?」
「さあな。あいつのことだけは最近どうにもわからん」
「他の事はなんでも知っていると言うような口振りだわ」
掠れた声で言うと、ファヴィラは濁った目をしばたたいて、天井をぼんやりと見つめる。
「夢の中で、メトゥスが泣いている声がしたの。私の名を呼びながら……」
「幻聴だ。あいつの得意技じゃないか」
「早くあの子を殺してやって」
「それは無理な相談だな」
「お願い」
「放っておけば、そのうち死ぬ。おまえはリュシアンの信頼を取り戻すことだけ考えろ」
トニトルスは深く溜息をついた……近くでファヴィラの匂いを嗅いでみてわかったが、今回の負傷によって魔力がこれまでになく低下している。エミリアの護衛のために遣わした鴉たちはすでに飛散してしまっているかもしれない。このままでは信頼を取り戻すどころか、役立たずとして切り捨てられてしまう。
「ねえ……お兄さまはどうしている?エミリア様はご無事なの?……」
「大丈夫だからあれこれ考えるな。とにかく今は休んで、一刻も早く回復してくれ。おまえの力を借りるのは癪だが……どうしても占ってもらいたいことがある。厭な予感がするんだ」
「はずれてばかりの占術に頼るとは」
室内に朗々と響き渡る声と共に、暖炉の薪が燃え上がる。




