106話
「それにしても、エミリアを地下に連れていったのは誰だろうな?」
窓から離れたトニトルスはブーツを脱ぎ、絹の靴下までも床に放って長椅子に寝そべる。
問いには答えなかったが、リュシアンには犯人の目星がついていた。ファヴィラだ。
エミリアが無断で忍び込むことなどあるものか……そうとわかっていて責めたことや、彼女の傷ついた顔を思い、リュシアンは胸の奥が痛みに疼くのを感じた。
「これは主に対する背信行為だ。犯人を突き止めねばならん」
吠えるようにトニトルスが言う。しかしリュシアンはかぶりを振った。
ファヴィラを問い質すつもりはない。犯した罪を白状させ罰しても、彼女は反省などせず我欲のために同じことを繰り返すだろう。兄と呼んで慕ってくれてはいるが、しょせん魔物だ。かつてイグニスが言っていた通り、清らかな心や忠誠心を望む方が間違っている。
「放置しておくつもりかよ。地下に連れ込んで、あのひとに危害を加えようとしていたのかもしれないんだぞ」
「今さら犯人捜しなどしてどうする。彼女は怪我もなく無事に帰ったのだから、それでよいではないか」
素っ気なく言葉を返し、3杯目の血を喉に流し込む。トニトルスは頭の後ろで指を組み、うっすらと笑った。
「エミリアとの関係を切って清々したと言うわりには機嫌が悪いな」
「私の機嫌を直したいか?だったら出ていってくれ」
低めた声で言い放つと、血のついた唇を舐めながらベッドに横たわり目を閉じた。
修道院に入るなり大きな影に目の前を塞がれ、足を止めた。
「待て、シスター・エミリア」
ギルバートだ。暗い目をした彼女を一瞥し、怒りに顔を染める。
「納屋に道具を取りに行ったきり戻らなかっただろう。いったいどうしたんだ」
「ごめんなさい……急に具合が悪くなってしまって、自室で休んでいたの……」
「下手な嘘をつくなよ。一晩中いなかったじゃないか」
彼は燃えるような目でエミリアを睨み据え、
「昼過ぎに一度帰ってきてまたすぐに出掛けたよな。こんなときに一体どこへ行ってたんだ?教皇庁の祈祓師ランドルフ・グラーツ博士の変死体が鐘楼の最上階で見つかって、大変な騒ぎになってるっていうのに」
その言葉にエミリアは伏せていた顔を上げた。
「今、治安官が来て皆に事情を聞いて回ってる。まもなく君のところにも来るだろう」
「そう……」
短く相槌を打ったエミリアは青白い顔をうつむけ、床に目を落とす。黙ったまま彼の脇をすり抜けようとしたとき、腕を強く掴まれ引き止められた。
「エミリア」
「やめてちょうだい……痛いわ」
苦しげに眉根を寄せたエミリアは逃れようともがく。そんな彼女の顔を強引に覗き込んで、
「なぜ俺の目を見ない?」
「放して、ギルバート……」
「昨日の夜、誰とどこにいた?答えろよ」
問うてくるその瞳の奥に不穏なものを感じる。エミリアは小さな唇をかたく噤むと、掴まれていた腕を振り解き駆け出した。
「エミリア!」
背後から声が追いかけてくる。
「黙っていても不利になるだけだぞ。無実の罪を着せられる前にすべて打ち明けた方がいい」
自室の扉を閉め、エミリアはずるずると床に崩れた。涙の跡が残る頬を両手で拭い、大きく息を吐く。
顔を上げると、自分であつらえた祭壇が目に入った。今日もまた、消したはずの蝋燭に火が灯りクインレスタの聖像を照らしている。
エミリアは穏やかに揺れる火をぼんやりと見つめた。
つけた覚えがないのに祭壇の蝋燭がいつのまにか灯っている……この現象はロメネル島に住んでいたときから頻繁に起きていたことで、彼女はもう驚きもしない。幼い頃は火の精霊フラーマが遊びにきているのだと思っていた。今はわからない。部屋には鍵がついていないため誰かが灯したのかもしれないし、ただ消し忘れているだけなのかもしれない。
彼女は靴を脱ぐと膝立ちになって祭壇に近づき、両指を組んで項垂れる。
「天地の母クインレスタよ……」
祈りながらも、エミリアの頭の中はリュシアンのことでいっぱいだ。
集中できずに目を開けたエミリアは、指を解き、手のひらを見つめる。彼を刺したときの感触がまだ生々しく残っている。哀しみと、怒りと、恐怖と……ない交ぜになった感情が嵐のように吹き荒れ、胸を搔き乱す。
それからしばらくのあいだ、エミリアは聖堂と修道院を行き来するだけで教会の敷地の外には出なかった。祈り、耕し、奉仕する。それが修道生活の基本であり、神に仕える者としての責務だ。今はただ無心に己のつとめを果たす……そうしていればいずれ憂いも晴れるであろうと、彼女は信じていた。




