105話
月光のように冷たく輝く瞳を凝視していたエミリアの目に、きらめくものが映る。眼球だけを動かしその方を見遣れば、いつの間にかリュシアンの右手に切っ先鋭い短剣が握られている。
思わず怖気をふるった瞬間、リュシアンが間合いを一気に詰めてきた。冷たい指に手首を絡め取られたかと思うと、強引に短剣の柄を握らされる。
「しっかり持て」
リュシアンの大きな手がやわらかく包み込んでくる。
光る切っ先は自分の方でなく彼の方を向いていた。意図がわからず怯えた眼差しで見上げれば、間近にあるその顔は、妖艶な笑みを刻んでいる。
「私がどれほどおぞましい生き物になり果てたか、見せてやろう。実際に目にしたそのあとも勇ましい言葉を吐けるかどうか……楽しみだ」
甘い声が耳底に響くのと同時、これまでに覚えのない妙な感触が指を伝ってきた。
呼吸を止めて視線を下にやると、銀の刃が半分ほどリュシアンの腹に埋まっている。
とっさに恐怖が込み上げた。柄から離そうとした手を、彼の白い指がぐっと握り込んで引き留める。
「ショーはまだ途中だぞ」
彼は眉根を寄せ吐息まじりに言いながら、エミリアとの距離を縮めた。銀の刀身はさらに深く体を貫いていく。
「目を逸らすな」
彼はエミリアの耳に囁くと、腹に沈み込んだ刃をゆっくりと横に動かし、大きく真一文字に切り裂いた。白いフリルブラウスに染み出した黒い血が鍔を伝い、床に点々と模様を描く。
エミリアの瞳は、明らかな動揺と恐怖に揺れていた。その様子を見下ろしたリュシアンは唇の隙間に白い歯を覗かせる。
「見ろ。私は不死身の化け物」
彼は低く笑いながら、深々と肌に埋まっている短剣を引き抜いた。そして静かに上衣をたくし上げる。引き締まった腹部が無惨に切り裂かれているのを見て、エミリアは取り乱し泣き叫んだ。
しかし当のリュシアンは冷静そのものだ。裂傷からは大量の血液が流れ出ていたが勢いはすぐに弱まり、出血量が減るに伴って黒々と開いていた傷口もきれいに閉じていく。それはまばたきのあいだに見逃してしまいそうなほどわずかな時間に起こった事象で、リュシアンが深く吸った息を吐き切る頃にはすでに傷痕すらも残っていない。血濡れた腹が淡く光るばかりだ。
「――シスター・エミリア」
目を細めた彼は小首をかしげ、
「君にこんなことをさせる奴に、心があるというのか?」
おだやかな声で問うて、微笑んだ。
エミリアの手から短剣がすべり落ち、硬質な音を立てる。絡みつくリュシアンの指を振り解いたエミリアは、色をなくした唇を手のひらで覆い隠し、一歩二歩と後ずさった。
拾い上げた短剣を手の中で弄びながら、リュシアンは喉の奥で笑う。
「修道女ともあろうものが邪悪なる存在に固執し……あまつさえ善性があるなどと思い込んでいるとは、なんと愚かな。神が泣いているぞ」
そのときだった。強い衝撃を左の頬に受け、彼は反射的に息を詰めた。
張り飛ばされた頬を手のひらで押さえ、驚愕に見開いた目でエミリアを見つめる。唇を噛みしめた彼女は、菫色の瞳に薄く涙を溜め、小さく震えながら睨み上げてくる。
リュシアンが口を開く前に、エミリアは背を向け地下室を出ていった。
「おまえも惨いことをする」
窓際のスツールに腰掛けたトニトルスが前髪の隙間から外を見遣り、苦々しく言葉を続ける。
「メトゥスの一件でオレたちが怪物だと知られてしまったし、関係がこじれる前に距離を置きたかった気持ちはわかるが……突き放すにしてもやりすぎだ」
私室の扉を後ろ手に閉めたリュシアンは、聞こえぬふりでそっぽを向いたまま、自らの血で汚れたブラウスを脱ぎ捨てた。衣装箱を開けて新しい絹のシャツを取り腕を通す。
「おまえにとって銀は毒なんだろ。さっさと薬を打っておかないとぶっ倒れるぞ」
なおも言うトニトルスを鼻であしらい、リュシアンは地下から持ってきた瓶の蓋を開けて中身をグラスに注ぐ。赤黒い液体がうねりながら満ちていくのを見ていたトニトルスは、荒っぽい手つきで窓を開け、風を浴びつつ振り返った。
「過去に囚われてヤケになるなるなよリュシアン。確かにあのひととジュディスの魂には繋がりがある。でも、生き方も考え方もまったく違うじゃないか」
「そんなことはわかっている」
「あのひとはおまえが魔物であることを知っていながら、ここへ来た。ジュディスのように口汚く罵り拒絶することもなく、おまえの存在を理解し寄り添おうとしてくれたんだ」
トニトルスは風に乱れる黒髪を束ね、主に真剣な眼差しを向ける。
「なあリュシアン。自分の気持ちを偽るのはやめて一刻も早く謝った方がいい。直接言うのが嫌なら手紙を書け。オレが教会に届けてやるから」
「謝る?」
リュシアンは乾いた笑い声を上げ、
「なにをしたって無駄だ。彼女との運命は断ち切った」
「あのひとなら……エミリアなら、おまえと共に永遠を生きる覚悟を決めてくれるさ。それに、これまでとは違って伴侶がいないのだから自分のものにするのは簡単だろう。意地を張るな。優しくしてやれ。おまえに愛を乞われれば拒むことはできまい」
「修道女に愛を乞うなど魔物の名折れだ」
「心にもないことを」
トニトルスはあきれ顔で言葉を継ぐ。
「エミリアはおまえに首ったけだ。このまま大人しく身を引いたりしないぞ」
「私に人の心が残っていると、彼女は信じていた。だからこそ慕ってくれたのだ。あんなことを強要するような冷血漢とわかればもう近づいてくることはあるまい」
「そうかな?」
「私が逆の立場なら二度と会わん」
リュシアンは意味深な笑みを浮かべているワーウルフを横目で見遣り、
「以前から、正体を悟られたら別れを告げようと決めていた。関係を終わらせることができて清々している。どんなに互いを求めても私たちは決して分かり合えないのだから……それぞれの場所で生きた方がいい」
「ふうん……。ならば、もう未練はないわけだ。近いうちにここを発つんだな?」
不機嫌に押し黙ったリュシアンはグラスの中身を勢いよく呷る。答えないのを見て、トニトルスは喉の奥で笑った。ウングラと共にラナデルを襲ってから今日までほとんど人の血を呑まなかったというのに、この暴飲……自ら選択したこととはいえ、エミリアとの決別がよほど堪えているらしい。
2杯目を続けて飲み干したリュシアンは、唇を拭い宙を睨む。赤黒く光るグラスを握りしめたまま、打たれた左頬に指で触れた。
刃で肉と内臓を裂いた瞬間よりも、エミリアからの平手打ちの一発の方に強い痛みを感じるとは……彼は眉根を寄せ、無意識に奥歯を噛みしめる。
こんなにも後味の悪い結末を望んでいたわけではない。未練は残るがしかし、エミリアがもう神を裏切らずに済むことを喜ぶべきであろうと、リュシアンは思った。正体を知らなかったとはいえ、彼女が神の敵に心を許していたことは事実だ。許されるならいつまでもそばにいたいと思っていたが、無自覚の罪を重ねさせていることに胸が痛まなかったわけではない。
エミリアは去っていった。これでよかったのだと、彼は自分に言い聞かせる。教会に戻った彼女は己の立場を思い出し、魔物と通じていたことを恥じて神に赦しを乞うだろう。




