104話
目と口から黒い血を垂れ流しながら地上に這い出した彼は、介抱しようとするジーナを振り切って、身重のマリアンヌが移り住んだルデロアの別宅に戻る。
だが、再会は叶わなかった。
屋敷には誰一人おらず、静まり返っていた……なぜなら妻マリアンヌは、ジーナの手によって腹の子もろとも惨殺されていたからだ。使用人部屋に放置されていた新聞記事でそのことを知った彼は、屋敷まで追いかけてきたジーナをその場で殺害し、復讐を遂げる。
「絶命したジーナを前にようやく我に返った私は、恐ろしくなってそこから逃げた」
マリアンヌと我が子を亡くし悲しみに暮れた彼は、最愛の者がいない世の中など生きていても意味がないと、自ら命を断つことを決意する。
彼はひとり、ラウマダハリの森に入った。刃物があれば楽に死ねたであろうが所持していなかったため、蔦で編んだロープで首を吊った。
しかし苦しいばかりでいつまでも死ねない。この方法は断念し、続いて深い滝壺で入水自殺を図ったがやはり未遂に終わった。
頭蓋を割ろうと岩に打ちつけるも血塗れになって気絶するのみ、鋭い石で動脈を深く切りつけてみても傷口がすぐに塞がってしまう。誤食すれば死に至るとして有名な毒草を腹いっぱい食らったが、三日三晩死ぬるほどの苦痛を味わったのみであった。
死の淵に立つもその深みに落ちることができず、どうしても自死が叶わない。傷がすぐに治癒する時点でなにかがおかしいことに気づいてはいたが、そのときはまさか不死身の体になったとは思いもしていなかった。
絶望を胸に抱き、深い霧の立ち込める呪われた森を彷徨っていたある日のことだ。彼はとつぜん開けた場所に出た。そこは切り立った崖になっており、ユングレト平原が一望できる。ここから落ちれば必ず死ぬことができると、彼は安堵の息をついた。
太陽の光を避け闇の中で暮らす孤独な日々もこれで終わりだ。崖の先端に立ち両腕を広げ、一切の躊躇いもなく投身自殺を図った夜――彼は我が身に起こる衝撃的な現象を目の当たりにすることとなる。
これでも駄目なのか……地に伏し、霞む視界の中つぶやいたリュシアンは、あらぬ方向にねじれた脚や腕がまたたく間に治癒していくのを見た。皮膚を突き破る折れた骨が自我を持っているかのように動いて元の位置に収まり、傷口がぴたりと塞がって、すでに痛みもない。
医師に死亡と誤認され埋葬されたのだとばかり思っていたがどうやら違う。死んだのは事実であり、人ならざる者として蘇ってしまったのだ。すっかり元通りになった体を起こした彼は、このときようやく事態を理解したのである。
自分が何者なのかわからぬまま、リュシアンは別荘の隠し金庫に保管していた財産を鞄に詰めると、ドラド大公国を離れカルタイ王国ロメネル島の大都市マルロサに渡った。
このときの彼を苦しめていたのは、太陽の下に出ると肌に火傷を負うということ(切創や骨折と違い治りが遅く、身を裂かれるような強い痛みを伴うことも彼を悩ませた)、そして食事を摂っても腹が満たされないということだった。
彼はその異常な空腹感をどうすることもできなかった。人や動物の血液しか受けつけない体になってしまったことを知らない彼はひたすら耐えたが、目の前を行き交う餌を前にしてはその我慢も長くは続かなかった。
深い霧の立ち込める真夜中、窓の外からふいに流れ込んできた血の匂いに誘われ家を飛び出した彼は初めて人を襲い、甘美な真紅を夢中で飲み干した。
彼は罪の意識に苛まれながらも、社会集団の中に留まり続けた。生き血を好む化け物と自覚してなお、人間的な生活を捨てることができなかったのである。彼は突如として襲い来る吸血衝動に翻弄されながらも、貴族の一員として暮らした。
そうして最初の百年を生きたが、その姿は20代の青年そのもの。墓から蘇ったあの日からすこしも変わらぬ美と若々しさを保っていた。
老いを知らぬ不死の体……長く生きるにつれリュシアンは孤独を深めていく。
やがて彼は社交界から去り、他人と深く交わることを避けるように人里離れて生活するようになった。そんなとき、住まいとしていた朽ちた屋敷にひとりの女が訪ねてきた。
「その女を見た瞬間、魔女だと直感した。ターシャ・ベルーカと名乗ったその女は、私のことをヴァンパイアと呼んだ。心臓を破壊するか頭を切り落とさない限り死ぬことはできない、そして死んだら魂も肉体と同時に滅び、転生は叶わないと」
同胞を増やすすべを、リュシアンはターシャから教えてもらっていた。体の血をすべて飲み干さずに生かせば、吸血された者は不死身の魔物となる。永遠を孤独に生きるのが辛いならそうすればいいと助言されたのだ。
また、ターシャはマリアンヌの魂がもうまもなくこの世に転生すると予言した。そして、再会すれば必ず愛し合う運命にあると告げた。魔女の話を真に受けるのは愚かだと思いながらも、リュシアンは彼女の言葉にすがった。彼は、マリアンヌが以前と変わらず愛してくれるというのなら、不死身となることを受け容れ、永遠を共に生きてくれるものと信じていた。
しかし、何度転生を繰り返し何度再会を果たしても、彼女は不老不死となることを拒み決して首を縦に振らなかったのだ。
「マリアンヌの生まれ変わりと3度めぐり会ったが、誰も永遠を望まなかった。愛してくれはしても、最後には私の元を去ってしまう。それでも私はマリアンヌとの未来を諦めきれなかった。彼女の死を見届けるたび各地を転々としながら生まれ変わりを探し、出会いと別れを繰り返して……今回辿り着いたのがこの地、ケンプベルだ」
エミリアはその美しい目をこぼれんばかりに見開いたまま絶句している。
ひとりの女の生まれ変わりに会うために、何百年も彷徨い続けたというのか?――衝撃のあまりに声を詰まらせている彼女に、リュシアンは続ける。
「私がケンプベルに来たのは君に会うためで、人を狩り糧を得ることを目的としていたわけではない。末妹が次女にそそのかされ問題を起こしたことについては、本当に申し訳なく思っている。君との再会を心待ちにしていたトニトルスも……おそらくファヴィラも、私と同じ気持ちでいることだろう。このふたりは君に迷惑をかけまいとして騒ぎを起こさず静かに暮らし、町の誰にも危害を加えていない。どうか罪に問わないでやってくれ」
リュシアンは椅子から立ち上がり、抱きしめていたドレスを長椅子に掛けるとエミリアに背を向けた。
「長々と話して悪かった。もっと証拠がいるなら城の中を見て回るといい」
「待って」
エミリアは去ろうとするリュシアンの手首を掴んだ。
彼はその手を振り解き、
「必要なものを持って出ていってくれ。そして二度と、ここには来るな」
言い放ち扉へ向かう。
リュシアンの前に回り込み行く手を阻んだエミリアは、日記を突き返した。彼は受け取ろうとはせず、それは床に落ちて重い音を立てる。
「私に会いにこの地へ来てくださったのに、なぜ拒むのです」
「見つけた君が、修道女として生きていたからだ。いつだったか言っただろう。私は神と君の敵であると」
「私も言いました。敵同士にはならないと。私は今日……なぜこんなにもあなたに惹かれてしまうのか、その理由がわかりました」
リュシアンは表情を変えず、すこしのあいだ黙ってエミリアを見つめていた。そしておもむろに彼女の頬を撫でると、目を細めた。
「――転生は通常、百年周期で起こるといわれている。君を待つそのあいだ、火の精霊イグニス、ワーウルフのトニトルス、そしてファヴィラを初めとした下級ヴァンパイアの三姉妹と主従関係の契約を結んだ。彼らと共に数えきれないほどの人間を襲い、血を啜って……私は文字通り、化け物になった」
彼が淡々と紡ぐ言葉を聞きながらエミリアは、メダリオンを握る手に力を込める。
「私が血でできた道を進むなか、君はその真逆の運命を手にし光の道を歩いている……対極にある我々は互いに背を向けていなければならなかったのに、私は振り返り、君を見つけ、追いかけてしまった」
リュシアンの髪がざわりと揺れた。
「逃げろ、神の子エミリア。化け物に喰われる前に」
「いいえ。逃げません」
彼女は目に涙を浮かべたまま首を横に振る。
「小川のほとりでお会いしたとき、私はあなたの優しさを確かに感じました。人ならざるものとなっても、心までは失っていない……だから私はあなたを化け物とは思いません」
「それは君の都合のいい幻想だ」
つぶやいた彼の唇が笑みを刻むと同時、アイスブルーの虹彩が白銀の炎を灯し、冴え冴えと光った。
「心などとうに死んでいる」




