102話
エミリアは古びた日記を胸に抱いたまま戸惑いの表情でリュシアンを見る。
「なにを躊躇している?真実と向き合う覚悟でここに来たんじゃないのか?」
ごくりと喉を鳴らし、手元の本に目を落とした彼女はゆっくりと表紙を開いた。
「577年……?」
日記の1ページ目は、旺歴577年2月25日から始まっている。今から900年以上も前だ。
忌まわしい呪いをかけられてから、ふた月が経った。
いつか誰かの役に立つことを願い、
我が身に起こる変化について記録していくことにする。
発作はだいぶ収まってきたが、体中が痛む。
光、音、においすべてにおいて神経が過剰に反応しているようだ。
太陽の光で肌が焼け爛れてしまうため日中は外に出られない。
エミリアはまばたきも忘れて文字を追い、ページを繰っていく。
7月8日
朝、鹿の血をカップ1杯。昼、なし。
人間の食べ物を美味いと感じられなくなり、
ときには吐き気すらもよおすようになってしまった。
しかし今夜はケイシー・ハロネンとの食事会だ。
トーマとミカエルも一緒に来てくれると言うが気乗りがしない。
10月16日
動物の血を毎日飲むよりも
人間の血を数日おきに飲んだ方が体が楽だとわかってはいるが
どうしても抵抗がある
彼らの血を啜るたびに正気をなくしていく気がして
恐ろしくてたまらない
私は怪物になってしまった
人間として生きていた日々のことを忘れたくない
動揺と恐怖が滲む乱れた文字を、エミリアは顔面蒼白のまま読み進めていった。日々の出来事や思いを書き散らした文章のあいまに、数百年前の新聞記事や、色褪せた写真が何枚も貼り付けられている。
「人や動物の血を糧とする不老不死の魔物……」
黒い血が染みついたページまできて、ゆっくりと目を上げる。見つめ返してくる彼に表情はない。
「あなたは、ヴァンパイアなの?」
エミリアは震えながらリュシアンを凝視した。ほとんど無意識に、首から下げたメダリオンに触れる。クインレスタのレリーフが蝋燭の火に輝いている。
それを見たリュシアンは、唇に薄く笑みを浮かべた。
「そんなもので私を退けられるとでも?」
彼は甘い声で言いながらエミリアに近づく。そしてペンダントのチェーン部分を掴んで引きちぎると、メダリオンの部分を手の中にきつく握り込んだ。皮膚が焼け、指の間から煙が細く立ち昇る。
「神の姿に怯むのは非力な下等生物のみ」
力をゆるめた手のひらからメダリオンがこぼれる。
「私は神など恐れん」
切れたチェーンに下がるそれをエミリアの前に翳し、目を細めた。喉の奥に声を詰まらせた彼女は唇を押さえ、彼を見上げる。
リュシアンはペンダントを床に落とすと、彼女の細い首に指をすべらせながら囁いた。
「震えているな……怖いか?」
問いかけられたエミリアは微かにかぶりを振り、
「クレアを……――クレア・オルビーを、ヴァンパイアにしたのは誰?」
鐘楼での少女の姿を思いながら問う。その瞳は、悲哀の涙に濡れている。
彼は表情を変えぬまま静かに答えた。
「君を襲った末の妹が。あの子は咎を負い、じきに死ぬ。赦してやって欲しい」
彼女は腰をかがめ、メダリオンを拾い上げる。手の中に強く握ると、菫色の瞳の中にいくつもの光の粒を揺らめかせながら、リュシアンを射るように見つめた。
「あなたたちはなぜケンプベルに来たの……」
視線を逸らしたリュシアンは、端整な顔に憂いを浮かべる。
「人に害をなすためではない」
「本当のことをお聞かせください。あなたの末の妹はクレアを襲ったわ。彼女と同じく血を必要とするあなたがこの町の人間を狙わない理由はどこにも――」
リュシアンは突然手を伸ばし、エミリアの肩を強引に抱き寄せる。そして、戸惑う彼女の耳に囁いた。
「こちらへ」
いざなわれたのは、仕切り棚の向こう。美しい調度品が棚の上に所狭しと並んでいる場所だ。まばゆいきらめきを放つ宝飾品や陶磁器、めずらしい模様が彫り込まれたグラスや銀細工。何種類もの香の瓶。誰かへの贈り物だろうか、リボンを掛けられたままの箱がいくつも積み上げられている。
中でもひときわ目を引くのは長椅子の背凭れに掛けられた鮮やかなサファイアブルーのドレスである。先ほどリュシアンを探していたときにはなにも思わなかったが、こうしてよくよく見てみれば、どこかで目にした覚えがある。
リュシアンの腕の中から抜け出したエミリアは、ふらふらと長椅子に近づいた。
「このドレスは……」
無意識に伸ばしかけた指を引き、彼女は息を呑む。
リュシアンが教会にやってきたあの日。激しい頭の痛みと共に脳裏に駆け巡った、身に覚えのない記憶……その中に見た女が着ていたドレスだ。
「思い出したか?」
リュシアンはエミリアの背に問うた。驚愕の面持ちで振り向いた彼女を静謐な眼差しで見つめ、言葉を続ける。
「そのドレスは、前世の君に贈ったものだ。形見として私の手元に戻ってきてしまったが」
「――前世?」
「私が聖堂を訪れた日のことを覚えているな、エミリア。いまこそ真実を打ち明けよう……あの日、私は君に会いに行ったのだ。この城で暮らし始めるより前から私は、君の存在を知っていた」




