女王への贈り物(人間)
丸一年をかけて、王位交代の混乱はようやく収束へと向かっていった。
王室は事実を隠そうとしたが、噂は静かに、しかし確実に宮廷の外へと滲み出していった。
人々を最も驚かせたのは、かつて王国全土を脅かした「魅惑の魔」ヴィクトリアの息子――ジェが、今なお生きているという事実だった。そして彼もまた、母と同じ邪悪を受け継いでいるという。
ジェイソン王は、かつてヴィクトリアに宿っていた悪霊がジェに移ったと知り、己の欲望のためにその存在と契約を交わした。
力と健康を得るために。
しかし結果は惨憺たるものだった。
ジェイソンもジェも、望んだものは何一つ得られなかった。
悪霊に取り憑かれた王は、全身が歪み、巨大な怪物と化し、王宮内で暴れ狂い、多くの者を傷つけた。
当初、人々は半信半疑だった。
だが王妃エリカが「国王は重病に伏している」と発表し、隣国から“空の使徒”を招いて祈祷と浄化を行うと告げたことで、民衆は噂の真実味を感じ始める。
宮廷の侍女や衛兵たちは、家族へとこっそり情報を漏らした。
「王は本当に怪物になった」と。
そして、「エリカ王妃が即座に兵と魔法師を率いて鎮圧したおかげで、死者は出なかった」と。
三日後、王の死が正式に発表される。
棺は幾重にも封印され、遺体の公開もなかったことで、噂はもはや疑いようのない“事実”となった。
葬儀の場で、エリカは新たな記念日を制定する。
ジェイソン王が怪物と化したその日を「至黒の夜」と名付け、民に邪悪への警戒を促す日とし、同時に王を悼むとした。
――しかし大半の国民は、それを「国家の恥の日」だと考えていた。
ジェイソンは、即位以来一貫して不人気な王だった。
別の女性に恋したことで、一方的に婚約を破棄し、
その後は元婚約者を無理やり側妃とし、別宮に長年幽閉する――
その横暴な振る舞いは、多くの人々の軽蔑を招いていた。
ヴィクトリアと結婚した後も、彼女と“攻略システム”の計画により、自国に不利な貿易協定を次々と締結し、わずか二年で国の経済と民生は大きく傾いた。
ヴィクトリアが失脚した後、ジェイソンは「自分は魅了されていた」として国民に謝罪し、エリカを呼び戻したことで、一時的に評価を回復したが――
それは長くは続かなかった。
エリカが遠征中、王宮に残されたジェイソンは幾度も致命的な判断ミスを犯し、彼女が帰還してようやく修正される。
その後も同じ構図は繰り返された。
ジェイソンが失敗し、エリカが尻拭いをする。
前王夫妻や宰相、貴族たちは必死に隠蔽を試みたが、失策の数はあまりにも多く、ついには宮廷の外へと漏れ出し、嘲笑の的となった。
「無能の王」
「税金の無駄遣い」
「王妃がいなければ何もできない男」
――それが彼の評価だった。
やがて「病により政務不能」と発表され、すべての政務が王妃エリカに委ねられた時、
貴族も官僚も地方の役人も、例外なく安堵の息を漏らした。
エリカが正式に即位した後、空公国の使徒、そして真珠王国の女王といった長年の同盟者の支援により、政権は急速に安定していった。
だが奇妙な点が一つあった。
彼女の唯一の公的な息子――エドワード王子が、正式な王太子として立てられていなかったのである。
王子は長らく公の場に姿を見せていない。
エリカは「父を失った悲しみを癒すため、翡翠魔法学院へ留学している」と説明した。
学院の貴族子弟たちはこれを裏付けている。
さらに、ブランティ公爵家の長女マリアンが常に王子に寄り添い、親密な様子であるとも語られていた。
だがこの配置は、どう考えても奇妙だった。
ブランティ公爵は反逆罪で拘束中。
その家は明らかに没落へ向かっている。
その娘と王子が婚約候補?
――そこにどんな政治的意図があるのか、多くの者が首を傾げた。
そして同時に、別の思惑を抱く者たちも現れ始める。
最初に動いたのは、廃王ジェイソンの叔父であった。
彼は一人の少年を伴い、王宮へ参内した。表向きは、宮廷で働く機会を与えてほしいという嘆願である。
だが――その意図は、誰の目にも明らかだった。
少年は、若き日のジェイソンによく似ていた。
八割ほど、顔立ちが重なっている。そして何より、表情が似ていた。
過剰な自尊心と、拭いきれない劣等感。その歪みが、視線の端に滲んでいる。
見ているだけで、不快だった。
アンジェラは、微かに眉をひそめた。
言葉にすることすら、ためらうほどの嫌悪感。
エリカもまた、同様だった。
面会のあいだ、少年は終始、苛立ちを隠そうともしなかった。
まるで自分が無理やりここへ連れてこられ、女王に侍ることを強いられているかのような態度。
だがその一方で――
王宮の謁見の間、アンジェラの身に飾られた宝飾、ドーグの纏う魔法衣。
それらを目にした瞬間、少年の表情は崩れた。
欲望。
羨望。
そして、浅ましい期待。
隠しきれなかった。
長い形式的なやり取りの末、エリカは静かに彼らを退けた。
理由は単純だった。
――学業が未了であり、職務に適さない。
二番目に動いたのは、古くから王家に仕えるマント家である。
彼らもまた、一人の少年を連れてきた。
――そして、エリカとアンジェラは息を呑んだ。
その少年は、赤い髪と深い緑の瞳を持ち、
どこか女性的な、整いすぎた容貌をしていた。
あまりにも似ていた。
マント家は遠回しに告げた。
もし、エリカとアンジェラの特徴を併せ持つ子が生まれたなら――
この少年は、処分する。
その代替として。
言葉にすれば、それだけの話だった。
だが、その意味はあまりにも露骨だった。
エリカが即座に拒絶すると、彼らは次の手を出した。
少女を連れてきたのである。
その少女もまた、アンジェラによく似ていた。
その瞬間、エリカの警戒は一段と強まった。
――これは、ただの贈り物ではない。
エリカは二人を一時的に引き取り、調査を命じた。
そして、真相に辿り着く。
アンジェラは、北方の男爵家の出身である、かつては、両親に愛される正統な後継者だった。
だが、暴風雪と戦乱によって、すべてを失った。
家も、領地も、家族も。
残されたのは、奪われた遺産と、引き取った伯父だけだった。
伯父はその遺産を手に入れると、アンジェラを処分した。
送り先は、フローラ伯爵夫人の修道院。
だがそこは――
信仰の場ではなかった。
行き場を失った貴族の子女を収容し、価値のある者を選別し、売る場所だった。
優れた者は、使用人として。
劣る者は、玩具として。
アンジェラは「選ばれた」。
美貌ゆえに。
彼女は教育を施された。
化粧。
衣装。
音楽。
古代語。
すべては、売るために。
やがて、フローラはブランティ公爵と結託し、アンジェラを王宮へ送り込む。
王か、王子の寵妾として。
その思惑通り、アンジェラは宮廷で注目を集めた。
人々は彼女を「王国の薔薇」と呼んだ。
だが――
ジェイソンが彼女を賞賛した瞬間、すべてが変わる。
ヴィクトリアは激しく嫉妬し、幾度も彼女を陥れようとした。
そして最後に、彼女を狩猟園へ送った。
猛獣の世話係として。
装備も与えず。
死を前提として。
だが、そこでアンジェラは生き延びる。
エリカの魔法によって。
それが、すべての始まりだった。
彼女は自ら望んで別宮へ移り、エリカとティムとともに、最も過酷な時期を生き抜いた。
侍女として。
側近として。
やがて、宮廷夫人として。
調査の結果、エリカは知る。
連れてこられた少年少女は、アンジェラの伯父の孫であった。
伯父はすでに死んでいた。
遺産を浪費し、借金を抱え、孫たちを売り払い、それでも足りずに、自ら命を絶った。
マント家は、その兄妹を買い取っていた。
元は高級娼妓として売るために。
だがエリカの即位後、用途を変えた。
――女王への贈り物として。
エリカは、すべてを理解した上で決断した。
マント家は、人身売買の罪で処断する。
禁令後も取引を続けていた事実は、動かない。
そして、兄妹は修道院へ送る。
今度は、本物の。
閉ざされた、穏やかな場所へ。
彼らは無実だ。
だが――
この世界では、それだけでは足りない。
利用される可能性がある限り、自由は、与えられない。
それが最も安全な形だった。
それでも貴族たちは懲りなかった。
次々と、美しい少年少女を“贈り物”として差し出し始める。
ついには議会で提案まで出た。
「女王は国のために尽くしているが、伴侶が不足している。後継問題を考え、複数の男女を迎え入れ、後宮を整備すべきである」
「適応力が高すぎるわね」
エリカは笑いながら言った。
「数年前はジェイソンに側妃を増やすなって騒いでたのに、今は私に美少年を増やせって?」
その声には、露骨な皮肉が滲んでいた。
「ディマン王国なんて、王子か王女を送ろうとしてるのよ」
アンジェラは苛立ちを隠さない。
「“亡国の悪女”のもとに王族を送るなんて、正気かしら」
ドグは肩をすくめて笑う。
「君はまだいい。“亡国”で済んでる。俺は“世紀最悪の魔法師”だぞ」
そしてディマン王国は、いつもの手段に出る。
――物語。
彼らは獄中の人気作家を釈放し、新作を書かせた。
内容は明白だった。
邪悪な女王、
その寵愛を操る妖婦 “禍国の悪女”、
そして闇の魔法使い“世紀最悪の魔法師”。
誰のことかは、誰の目にも明らかだった。
だが、事態はディマン王国の思惑通りには進まなかった。
問題の小説第一巻は、発売直後こそ話題になった。
派手な宣伝、誰がモデルか一目で分かる露骨な設定、そして「王国の真実を暴く衝撃作」といった煽り文句まで添えられていたため、最初のうちは物珍しさもあって、リタール王国でもかなりの部数が売れたのである。
ところが、読者たちが実際に読み進めるにつれ、空気は急速に変わっていった。
そこに書かれていたのは、国民が敬愛している女王を醜悪な簒奪者として描き、その傍らにいる二人を「国を惑わす悪女」と「世紀最悪の魔法師」として貶める、あまりにも悪意の露骨な内容だったからだ。
しかも物語としても雑で、感情の積み重ねより刺激的な展開を優先し、登場人物たちの行動にも説得力がない。読者たちは途中で醒め、続刊を買う者は急激に減っていった。
だが――
作者とディマン王国が予想していなかった方向で、火はついた。
王都の書肆、露店、市場の片隅、さらには貴族の屋敷の私的な読書会に至るまで、
「では本当はどうだったのか」
「この三人の間には、もっと別の感情があったのではないか」
と考え始める者たちが現れたのである。
やがてその好奇心は、二次創作という形で爆発した。
最初は匿名の短い小冊子だった。
誰かがこっそり書き、安価な紙に魔法複写で刷り、書店の棚の隅や市場の布の下に滑り込ませる。
それが思いがけず売れ、次は絵付きになり、次は装丁に凝った本となり、ついには専門に扱う露店まで現れた。
内容も実にさまざまだった。
「傾国の悪女」と「世紀最悪の魔法師」が、女王をめぐって水面下で火花を散らすもの。
三人が革命の前夜、ひそかに同盟を結ぶもの。
あるいは、誰にも理解されない孤独を共有しながら、長い年月をかけて少しずつ信頼を築いていくもの。
中には露骨に扇情的なものもあった。
夜会服を裂く音や、魔法によって灯りの落ちた寝所、王座の裏側に隠された接吻――そういった描写ばかりを並べた安っぽい本も、もちろん数多く流通した。
しかし、最も人気を博したのは、そうした本ではなかった。
一番売れた同人誌は、意外にも、色事をほとんど描かなかった。
むしろ、その筆力のほとんどを費やしていたのは、女王と二人の側近が長い時間をかけて築き上げた関係――革命の同志としての連帯、互いにしか見せない弱さ、そして王宮の外からは決して見えない年月の重みだった。
それは一種の“革命叙事詩”のような読後感を持っていた。
読者は読み終えると、泣いたとか、眠れなくなったとか、最後の数ページを何度も読み返したとか、そんな感想を口々に漏らした。
書店によっては、その本だけ何度補充しても即日で売り切れ、貸本屋では順番待ちの札が何枚もぶら下がった。
貴族の令嬢たちはこっそり侍女に買わせ、下級役人の妻たちはページの一節を暗唱し、若い魔法師たちは勝手に朗読会まで開いた。
その本が特に人々を惹きつけた理由の一つは、作中で「物語の冒頭ですでに死んでいる王」の設定を、驚くほど巧妙に補完していたことにある。
その同人誌によれば――
王は王の子ではなかった。
前王の最初の妃が騎士と密通して生んだ子であり、前王は秘密裏に妃を処刑した後も、王家の体面のため、その子を王子として育て続けた。
だが再婚した王妃や側妃たちとの間には、どうしても正統な後継が生まれない。
そこで、王家の血を濃く引き、継承順位も高い貴族令嬢を婚約者として迎え、破格の条件を提示した――たとえ誰との子であろうと、王家の血を継ぐ子を産みさえすればよい、と。
その貴族令嬢こそが、後の女王である。
彼女は王家へ嫁いだ後、夫がすでに両親に甘やかされきった無能な男であり、政務のすべてを押しつけてくることを知る。
苦しみ、耐え、表には出さず、それでも国を支え続ける。
そして夫の死後、長いあいだ実質的に王の役割を果たしてきた彼女が、ついに自ら王座へ座る――という筋書きだった。
この設定が、妙に人々の胸に刺さった。
というのも、現実の前王には確かに二人の正妻と複数の側妃が存在し、最初の妃には以前から騎士との不義の噂があった。
ジェイソン王自身、その血筋をたびたび疑われていた。
さらに彼は父王にほとんど似ておらず、母の護衛騎士にはどこか面差しが近い、と囁かれていたのである。
もちろん、誰も公の場でそんなことは口にできない。
だが、人々は本を閉じたあと、胸の奥で思わずにはいられなかった。
――もしかして。
――あの同人誌の方が、下手な公式よりよほど真実に近いのではないか。
その瞬間から、その本は単なる二次創作ではなくなった。
それは、国民が「語れない真実」を遠回しに共有するための、
最も安全で、最も危険な手段になったのである。




