伯爵の執念、王太子の計算
次に動いたのは――
エリカの母家、ジェル伯爵家であった。
それは、他の貴族たちとは少し性質の異なる「贈り物」だった。
かつて、エリカの父であるジェル伯爵は、王家による“誘拐”に加担した張本人である。
出国前の送別会と称した家族の晩餐の席で彼女に薬を盛り、意識を奪ったまま王家へ引き渡した。
そのうえ、エリカと空の間で交わされていた手紙を盗み取り、彼女の筆跡を模倣させて空を王国へ誘い込み、最終的にはジェイソンのもとへ売り渡したのである。
それが、父のしたことだった。
伯爵家の後継者――エリカの兄もまた、かつてはヴィクトリアと親密な関係にあった。
ジェイソンの側近たちと同様に、魅了魔法に長年晒され続けた代償は大きかった。
ヴィクトリアの処刑後、数年のうちに。
彼の身体は急速に衰弱し、そして――死んだ。
早すぎる死だった。
王家の仲介でようやく成立していた真珠王国の王女との婚約も、その死とともに解消され、臨終の間際、彼は執念のように複数の女性を求めて子を残そうとしたが、結局は一人の後継ぎも得られぬまま苦悶の中で息絶えた。
唯一の後継者を失ったことで、ジェール伯爵は深い恐慌に陥った。伯爵夫人は、彼が王家と結託してエリカを売り渡した時点で決別し、実家へ戻っていた。
伯爵自身もまた息子と同じように複数の女性を囲い、さらには多産の寡婦を高額で妾として迎え入れたが。
それでも。
――誰一人、子を産まなかった。
何も残らない。
何も繋がらない。
血が、途絶える。
ついに伯爵は、屈した。
プライドも、過去の確執も投げ捨て、王宮へ向かった。
王妃として復帰したばかりのエリカのもとへ。
彼は願った。
「次に生まれる子を、伯爵家の後継に」
――恥も外聞もなかった。
だが、エリカは別の提案をする。ティムを養子に迎えればよい、と。
将来、分家の娘と婚姻させれば、それで血統も整う。
合理的な案だった。
伯爵は激しく拒絶した。血の繋がりもなく、奴隷出身の子を自分の家に迎えるなど、到底受け。
そして今。
彼は、その決断を。
心の底から後悔している。
エリカは、ジェイソンが床に伏した後、
王妃として実権を掌握すると同時に、父の権力を剥奪した。
母を呼び戻し、領地の統治を任せる。
伯爵自身は、名目上の地位だけを残された。
伯爵本人は爵位こそ保っているものの、一切の決定権を持たず、家長としての私印や家印すら取り上げられ、屋敷の中で半ば囚人のような生活を強いられている。
使用人たちは命令に従うふりをしながら監視の役目を果たし、彼の言葉に応じることもない。
後継についても、エリカは淡々と言い放った。
「将来、私の孫の中から選ぶ」
伯爵家の未来は完全に彼女の掌中にあった。
新女王の父であるはずの自分が、栄光ではなく監禁に近い扱いを受けている現実に、伯爵は耐えきれず、しかし過去に自らが娘に行った仕打ちを顧みることはな
エリカが王位に就いてから、伯爵の後悔はさらに深まった。
本来であれば。
だが現実はどうだ。
監視されるだけの老人。
何もできない男。
彼は、自らの罪を一切見ようとしなかった。
エリカに何をしたか。
どんな裏切りを重ねたか。
そんなものは、どうでもいい。
すべては――
「あの時、ティムを受け入れなかったからだ」
それだけに、原因を押し付けた。
屋敷に閉じ込められながらも、伯爵は情報を集めていた。
使用人たちの噂話。
断片的な会話。
そこから浮かび上がる、ティムの現在。
聡明な領主。
女王の寵臣。
南方貴族の中心人物。
宮廷夫人の養子。
そして、魔法大臣の一人息子。
かつては見下していた存在が。
今では、自分より上にいる。
その事実が、彼の中で歪む。
そして、願望へと変わる。
「許しを得ればいい」
「過去のことを、水に流せばいい」
「一言、口添えしてもらえればいい」
――それだけで。
すべてが戻る。
「……たかが奴隷の子が、貴族だと……?」
伯爵は、窓の外から這い込んできた赤い蔓薔薇を見つめながら呟いた。
その声は、どこか浮ついていた。
「だが、私が取り入れればいい。あの小僧を懐柔すればいい。エリカも、父である私を無視できまい」
そして、笑う。
「いずれは、太上王だ」
誰も、返事はしない。
使用人たちは、食事を運び、生活を整えるだけ。
言葉には、一切応じない。
だから彼は、薔薇に話しかけるようになった、彼は屋敷の外壁を覆う赤い蔓薔薇に向かって語りかける癖を持っていた。
いつからか。
気がつけば、屋敷の壁はすべて赤い蔓に覆われていた。
やがて伯爵は、機会を掴む。
公開の祝祭。
限られた外出の許可。
その中で――
彼は、旧友と接触する。
ディマン王国の王太子、ソロモン。
ソロモンもまた、追い詰められていた。
現在ソロモンは王位継承争いの渦中にあり、複数の王子たちがそれぞれ外国勢力と結びついて権力を競っていた。
本来であれば水の聖女ミナミを妻に持つ彼は最有力候補であったが、リタール王国の政変、空の反乱、そして日輪の勇者の失踪により、その優位は大きく揺らいでいる。
さらに、ミナミとの関係も崩れつつあった。
巡回は続けなければならない。
水魔法の供給は、貴族と商人の支持を繋ぎ止める要だった。
だが、空が去った今、代行者はいない。ミナミ自身が動くしかない。
だが彼女は、拒絶した。
旅の疲労。
魔力の酷使。
そして――
心の限界。
さらに。
ソロモンは側室を迎えた。
二人。
いずれも有力家臣の娘。
「王位のためだ」
「君の負担を軽くするためだ」
そう説明した。
だが――
届かなかった。
ミナミは部屋に閉じこもり、巡回を拒み、彼との接触すら断った。
結果として。
彼は外に求めた。
支援を。
同盟を。
可能性を。
そのような状況の中、二人はある計画に合意する。
ソロモンとミナミの娘である王女、そして三人の高位貴族令嬢をティムに差し出し、彼を取り込もうというものであった。
いずれも血統は申し分なく、美しく、聡明で、体つきにも恵まれている。
奴隷出身であるティムは必ず劣等感を抱えているはずであり、王女や貴族令嬢に囲まれれば容易に取り込める――それが彼らの歪んだ確信であった。
彼の妻である、山から来たという身分不明の女など問題にならないと、彼らは本気で信じていた。
「触れられるはずだ」
伯爵は思った。
「見えなくとも、触れられるだろう」
魔眼で視えずとも。
肌はある。
欲望はある。
「王女と貴族の娘」
それは、最大の誘惑。
あの“山から来た女”など、比較にもならない。
名前も、身分もない存在など。
取るに足らない。
少女たちの意思など、最初から考慮されていない。彼女たちは半ば拘束される形で船に乗せられ、密かにインスタ領へ送り込まれる準備が進められていた。
「成功する」
ソロモンは言った。
その声は。
どこか、自分自身に言い聞かせるようだった。
「当然だ」
伯爵は即答する。
「王女とあの三人を前にして、あの平民女など、影にもならぬ」
その言葉は。
静かに。
しかし確実に。
破滅へと続いていた。




