出陣、元マイホーム
「さて確認です。これから行く家では私のことは絶対、ダイアナだとばれないように、お母さんとかママとか呼ばないように気をつけて下さい」
空港をでて、私たちは休む間もなく車で子供たちの父、私の前世での夫にして現世での義理の祖父の家に向かっていた。
「了解、黒蜜姫」
セリアさんは最近、ふざけて私のことをこう呼ぶ。何でも光に透けると濃い茶色になる髪色が、黒蜜を思わせるそうだ。
その表現は気にいったが、この呼び名は気恥ずかしい。でもいくら言ってもやめてくれないので、諦めた。
「黒蜜?」
「和菓子の上にときどきかかっている黒いシロップ、髪の色が似てると思わない?」
「ああ、いい表現ね。わたしもそう呼んでいい? ママ」
おいこらエドワード、ここに来る前セリアとシャンテルが仲悪いっていってたの、嘘? どう見てもシャンテルの雰囲気が柔らかいわよ。
「お好きに」
恥ずかしいけどね。
でも私は昔からこの、滅多に甘える姿を見せない娘のお願いには弱いのよ。
「エドワード、ゲイルには私のこと、どこまで話してるの?」
「日本で養女を迎えた。それだけですよ。お母さんの今の名前も、前世の記憶があることも、養女に迎えた理由も経緯も、一切話してません。長老にはお母さんがダイアナだということだけ伏せてある程度のことは話しましたが」
「そっか。夏会で長老にばれると思う?」
「まず確実に、ばれるでしょうね。ばれても長老は黙っていて下さるかもしれませんが、ほかの方々はそうもいかないでしょう」
「あーもう、面倒だなあ」
「そもそも父に隠す必要あるの?」
娘はまっすぐだなぁ。お母さん嬉しいよ。
どうせばれるにしても、一番にあいつにばれるのは嫌。ただそれだけの私の意地。というのが理由の一つ目。
二つ目は奥さんがいるゲイルに無用な心労をかけたくないということ。現奥さんと元妻が目の前でそろい踏みなんて、気まずいことこの上ないだろう。
三つ目はゲイルの責任感。ゲイルのことだから、私がダイアナだと知ったら、いっそ自分の養女にするとか養育費を出させてくれとか言いだしそう。その程度には愛されて執着されていた自覚がある。
ゲイルが再婚してなければそれもよかっただろうと思うが、再婚している現状でそんなことをして、夫婦仲に亀裂が入らないわけがない。私はそれを望まない。
だからゲイルより先に一族にダイアナ=月湖だとばらして、ゲイルの元妻よりエドワードの娘としての存在を周知したいというのが三つ目。
ということはまあ、娘にいう必要はないでしょう。
「今日ばれるのはまずいの。一族のみんなにばれたあとなら、ゲイルに知られようが構わないわ。だから今日だけは徹底してくれない?」
上目遣いでにっこり笑うと、シャンテルはこくこくと可愛らしく頷いてくれた。
持つべきものは素直な娘だね。かーわいい!
と、意気込んでやってきたのに、十年前とかわりないアパートメントはもぬけの殻だった。
あれ? 今日来るってエドワードが連絡していたよね?
どうやって私がダイアナだということを隠したまま、ダイアナの遺品のレシピを貰おうか、頭を悩ませていただけに、拍子抜けした。
「今日、お父様もちゃんと仕事を休むって言っておられましたわよね。それがなぜ、お父様も、マーガレットもおられないのかしら?」
「シャンテル、代わって。――ああ、久しぶり、父さん。ただいま。うん、今、実家。この前娘ができたから紹介しようと思って連れてきたけど、初めての長旅で疲れてるだろうし。一時間以内に帰ってこなければ帰るよ」
後ろで子供たちが携帯電話で父親に脅しをかけているのをよそに、私はダイニングの本棚、十年前と変わららない位置に収まっていた手書きのレシピを震える手で引き出した。
パラパラとめくると、懐かしい料理の数々が踊る。
作り方を目でなぞり、完成品の写真を撮ったときを思いだし。その一品一品を食べたときの家族の感想。どの料理をどの品目と組み合わせたか。季節ごとの応用パターン。
それらを一つ一つ書き込んだときを思いだして、一気に懐かしさがこみあげてきた。それと同時に、悲しくなる。
私のレシピは、私が覚えているまったくそのままだった。最後の品目は、私が書き加えたものだった。
私が死んでから十年間、誰もこのレシピに新しい料理を書き加えなかったのだ。
「月湖。父さんは三十分以内に帰ってくるそうですよ。マーガレットのほうは連絡がつけば父さんといっしょに帰ってくるでしょう」
「ねえ、聞いたことなかったけど、マーガレットって、ゲイルの新しい奥さんの名前?」
「ああ、そうですよ。そこに写真がありますよ」
嫌な名前だ。ハイスクール時代の暗黒史を思いだす。
ああ、もう! 転生して一度も思いださなかったのに。
写真に写っていたのは、記憶にあるよりはるかに老けていたが、確かにハイスクール時代、私が大っ嫌いだった女だった。
「もしかして知り合いですか?」
睨みつけていた写真から目を離して、私は怪訝そうな顔をした息子に満面の笑顔を向けた。
「ううん? 知らない人よ」
マーガレットとの確執を子供たちに話すつもりは、私は欠片もなかった。大体、私は彼女を覚えていたが、彼女はハイスクール時代の数年、同じ学年だった私のことなど覚えていないかもしれないのだ。
彼女とダイアナの関係は終わったもので、それを掘り返して義理の母親と子供たちの関係に亀裂をいれる必要はない。
転生のいいところは、マイナスの関係をリセットできることかもしれないと思いながら、私はマーガレットのうつる家族写真をパタンと倒した。