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第82話

 



 バチバチッ、ギギィィィィィィン!!


 浮遊島『アイアン・ヘヴン』のドックに降り立った瞬間、周囲に漂う無数のボルトや鉄屑が、猛烈な勢いでロイド・グランヴェルの頭上を掠めていった。

 本来なら、全身の金属部位を吸い剥がされ、身動き一つ取れなくなる絶死の磁気嵐。

 しかし、ロイドは磁力線が可視化されるほど濃密な空気の中で、まるで春の並木道を散歩するように優雅に歩んでいた。


「……なるほど。この島、至る所から磁力が噴き出していますね。空気が重く、耳の奥で微かな金属音が歌っているようです」


 ロイドは、激しいスパークを放つ鋼鉄のクレーンアームが、自分を避けるように歪んでいく様子を眺め、満足げに呟いた。


「周囲の磁束密度、通常の百倍を突破。通常の金属鎧を纏った騎士であれば、一秒前に島の中央まで『射出』されています。……ですが、このスーツの『完全非磁性(かんぜんひじせい)・高分子セラミック繊維』により、磁力はロイド様の体を『ただの虚無』として透過しています」


 背後を歩く秘書官のクラウスが、無表情のまま、一切の金属を含まない特製タブレットを操作し、現在の観測データを読み上げる。


 二人が身に纏っているのは、グランヴェル財閥『研究開発部(R&D)』が「弟を磁力などで引き寄せていいのは私だけだ。無機質な鉄塊ごときにその特権は渡さん」という総帥の独占欲を、最新の物質工学で具現化した【完全非磁性(かんぜんひじせい)・反重力機能付きスリーピース】である。

 ボタンから裏地に至るまで、地球上に存在しない特殊樹脂とセラミックで構成されており、磁石の王ですらロイドを「引き寄せる対象」として認識できないのだ。


「素晴らしい。これなら、極上の『磁気発光・スマイルエステ』に何時間でも没頭できそうですね」


 ロイドが微笑んだ、その時だった。


 ――カリッ、ポリポリッ……!


 島の中心、巨大な磁力制御炉の頂上。

 凄まじいスパークを浴びながら、体高十五メートルを超える、丸々とした「黄金色に発光する塊」が姿を現した。

 それは磁力を吸収するたびに短い毛がメタリックな輝きを放ち、手には巨大な鉄の歯車をドーナツのように抱え、そして何より――顔中に「これ以上ないほどの幸福」を詰め込んだような満面の笑みを浮かべていた。


『キュフゥーッ!!(おてつの味がするピィ! しあわせだピィ!)』


 巨大クオッカワラビーは、巨大な歯車を「バリバリ」と齧りながら、口角をこれでもかというほど釣り上げ、目を細めてこちらを「にっこり」と見つめてきた。

 彼が笑うたびに、周囲の磁場が共鳴して虹色のオーロラが発生し、アイアン・ヘヴン全体が至福の振動に包まれた。


「おお……おおおお……!!」


 冷静なクラウスの横で、ロイドは目をカッと見開き、感嘆の声を漏らした。

 その瞳に宿っているのは、精神汚染への恐怖などではない。極限まで高まった、倒錯的な『幸福への愛』である。


「見なさい、クラウス! あの、鋼鉄を主食としながらも、世界中の平和を凝縮したかのような究極のスマイル! 磁力を浴びるたびにメタリックに輝くその毛並み、そして短い手で一生懸命に歯車を抱える健気な姿! 間違いない、あれぞ『空の磁界に舞い降りた、笑顔の破壊兵器』です!!」


『……キュ?(おてつ、たべないピィ?)』


 自分の放つ強力な磁場の中でも、自分以上に幸せそうな顔で近づいてくるロイドに、巨大クオッカが首を傾げた。

 その瞳は、侵入者を拒む魔獣のそれではなく、ただ純粋に「……だれ? いっしょにニコニコする?」と言いたげに、手に持っていた食べかけの歯車を半分差し出してきた。


「なるほど。局長たちが『磁気の処刑場』と恐れていた精神汚染の正体は、クオッカちゃんが『あまりの食事の美味しさに、自分自身の幸福(磁気)を無自覚に周囲へお裾分けしてしまっていただけ』でしたか。なんと博愛主義で、なんとハッピーな天然磁石でしょう!」


 自分を鉄屑の渦に引き込もうとする致命的な磁力を、特注スーツの非磁性機能でただの「微かな風」に変えながら、ロイドは無傷のまま、至福の笑みを浮かべて両手を広げた。


「あのメタリックな毛並みを一枚ずつ丁寧に磨き、磁気のリズムを整えてあげながら、一緒に口角を上げて微笑む……。考えただけで、財閥の重工業利権をすべて解体しても惜しくないほどの価値を感じます! ああ、なんて贅沢な幸福クオッカなのでしょうか!」


「……ええ。おっしゃる通り、私のカバンに用意した『磁気ノイズ完全除去コロコロ』の出番ですね。後で異常な磁場干渉によるスーツのボタンの分子レベルの歪み修正代も、経理に請求しておきます」


 鋼鉄の島で一人熱狂するロイドと、無表情で特注コロコロを構える秘書官クラウス。

 そんな規格外の人間たちを前に、巨大クオッカは「……キュ? あのニンゲン、とってもいい笑顔ピィ」という顔で、おずおずと差し出していた歯車を置き、ロイドの方へピョンピョンと跳ねてきた。


「怖がらなくて大丈夫ですよ。……さあ、私が極上の『超伝導・魔力クロームメッキ菓子』と、口角専用のスマイル・マッサージを用意して差し上げましょう」


 ロイドは一切の警戒もなく、世界で最も優雅な足取りで、火花が飛び交う鋼鉄の床を滑るように巨大なクオッカのもとへと歩み寄り始めた。

 空を支配する磁気の地獄で、冷徹な御曹司による『最高にハッピーでメタリックな買収劇』が、今、幕を開ける。




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