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第77話

 



 ピキィィィィィィィン……!!


 大氷壁の内部、鏡のように磨き上げられた氷の回廊に足を踏み入れた瞬間、世界は音を失った。

 本来なら、一瞬で血液を凍らせ、細胞を粉砕するマイナス百度の世界。

 しかし、ロイド・グランヴェルは、春の小川を眺めるような穏やかな顔で、ダイヤモンドダストが舞い散る通路を優雅に歩んでいた。


「……なるほど。この氷壁、ただ凍っているだけではありませんね。空間そのものが熱を拒絶し、静寂を強いています」


 ロイドは、触れた瞬間に指が張り付いて剥がれなくなるはずの氷の壁に、あえて素手(魔法コーティング済み)で触れ、満足げに呟いた。


「外部気温、マイナス百二十度を突破。通常の防寒具であれば、三秒前に着用者ごとカチカチの氷像になっています。……ですが、このスーツの『熱振動増幅(ねつしんどうぞうふく)型・自己発熱システム』により、スーツ内部は現在『高級旅館の露天風呂(四十二度)』のぬくもりが維持されています」


 背後を歩く秘書官のクラウスが、無表情のままタブレットを操作し、現在の熱力学データを読み上げる。


 二人が身に纏っているのは、グランヴェル財閥『研究開発部(R&D)』が「弟が寒さで震えるなど、全宇宙の太陽が沈んだも同然。弟を暖めるのは私の情熱だけで十分だ」という総帥の狂った独占欲を受けて開発した【完全断熱(かんぜんだんねつ)・自己発熱機能付きスリーピース】である。

 スーツの繊維一本一本が超高速で振動し、周囲の冷気を取り込んで「熱」へと変換し続けているのだ。


「素晴らしい。これなら、極上の『尻尾はむはむ・添い寝エステ』に何時間でも没頭できそうですね」


 ロイドが微笑んだ、その時だった。


 ――はむっ、はむはむ……。


 氷壁の奥、古代の宝石が埋まったまま凍りついた広大なホール。

 冷気を放つ祭壇の中央で、体長十五メートルを超える、銀灰色の「巨大な毛玉」が丸まっていた。

 それは、自分の体長ほどもある太くて長い、最高級のカシミアを何層にも重ねたような尻尾を、器用に口で「はむっ」と咥え、鼻先を温めている――巨大ユキヒョウだった。


『……ふにゃ?(なんだか、ぽかぽかするのがきたの……?)』


 巨大ユキヒョウは、自分の尻尾を咥えたまま、片目だけを「ぱちり」と開けてロイドを見つめた。

 彼が吐き出す息は瞬時に氷の粒となり、周囲に幻想的な輝きを撒き散らしていたが、その仕草はあまりにも無防備で、あまりにも愛らしかった。


「おお……おおおお……!!」


 冷静なクラウスの横で、ロイドは目をカッと見開き、感嘆の声を漏らした。

 その瞳に宿っているのは、凍死への恐怖などではない。限界を突破した、『尻尾への執着』である。


「見なさい、クラウス! あの、自分の尻尾をマフラー代わりにし、さらにそれを甘噛みすることで精神の安定と保温を同時に成し遂げる、生物学的にもあざとさ的にも完成されたポーズ! 間違いない、あれぞ『雪山の孤独を、自らのモフモフでねじ伏せた孤高の聖獣』です!!」


『……むにゃ?(なんで、こげない……あたたかいの……?)』


 自分の放つ絶対零度の冷気を受けても、湯気を立てながら微笑むロイドに、巨大ユキヒョウが尻尾を咥えたまま「むにゃむにゃ」と首を傾げた。

 その瞳は、獲物を狙う猛獣のそれではなく、ただ純粋に「……だれ? ぼくといっしょに、はむはむする?」と言いたげに、おずおずと体を伸ばしてきた。


「なるほど。特使たちが『氷の処刑場』と恐れていた吹雪の正体は、ユキヒョウちゃんが『あまりの寒さに、自分の尻尾を吸いすぎて、余った冷気が周囲に漏れ出していただけ』でしたか。なんと自給自足で、なんと省エネな暖房器具でしょう!」


 自分を氷の彫像に変えようとする致命的な冷気を、特注スーツの振動機能でただの「心地よいマッサージ」に変えながら、ロイドは無傷のまま、至福の笑みを浮かべて両手を広げた。


「あの太い尻尾を私の首にも巻き付け、一緒にはむはむしながら、絶対零度の中でお昼寝をする……。考えただけで、財閥の石油利権をすべて焼却しても惜しくないほどの価値を感じます! ああ、なんて贅沢なマフラー(ユキヒョウ)なのでしょうか!」


「……ええ。おっしゃる通り、私のカバンに用意した『霜取り全自動コロコロ』の出番ですね。後で急激な温度差によるスーツのボタンの金属疲労修繕代も、経理に請求しておきます」


 大氷壁の最深部で一人熱狂するロイドと、無表情で特注コロコロを構える秘書官クラウス。

 そんな規格外の人間たちを前に、巨大ユキヒョウは「……ふにゃ? このニンゲン、ゆたんぽの匂いがするの……」という顔で、おずおずと咥えていた尻尾を離し、ロイドの方へ前足を伸ばしてきた。


「怖がらなくて大丈夫ですよ。……さあ、私が極上の『自己発熱・魔力ホットミート』と、尻尾専用のブラッシングを用意して差し上げましょう」


 ロイドは一切の警戒もなく、世界で最も優雅な足取りで、あらゆる熱を奪い去る氷の回廊を滑るように巨大なユキヒョウのもとへと歩み寄り始めた。

 世界を凍てつかせる白銀の地獄で、冷徹な御曹司による『最高にホットではむはむな買収劇』が、今、幕を開ける。




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