第78話
――はむっ、はむはむ……。
大氷壁の最深部、絶対零度の祭壇。
銀灰色の斑点模様を持つ巨大な「毛並みの塊」が、自分に近づいてくる「絶対に凍らない異物」――ロイド・グランヴェルの存在を捉えていた。
普通の魔導師なら、この距離に近づいただけで肺胞が凍りつき、氷の彫像となって永遠の眠りにつくはずだ。
しかし、ロイドはまるで高級サウナの後の外気浴を楽しむかのように、ダイヤモンドダストを浴びながら優雅に目の前までやってくる。
「さあ、まずはこれをお召し上がりなさい。氷ばかりを食べていては、その『極厚密度の毛並み』を維持するためのカロリーが足りませんからね」
ロイドは懐から、自己発熱機能を持つ特殊な魔法釜を取り出した。
グランヴェル財閥『研究開発部(R&D)』が、極地牛の赤身肉に熱振動魔素をインジェクションし、一切冷めることなく、食べるほどに体内から発熱するように加工した『極上・熱振動魔力ステーキ』である。
釜を開けた瞬間、極寒の世界にはあり得ない、芳醇な肉汁の香りと黄金色の湯気が、氷の回廊を白く染めた。
『……ふにゃ!?(なにこれ、すっごくポカポカで美味しい匂いなの……!)』
巨大ユキヒョウのサファイア色の瞳が、一斉に輝いた。
抗いがたい温かな香りに誘われ、自慢の尻尾を「はむっ」と離すと、おそるおそるその肉に噛みついた。
――ジュワァァ。ポワァァァン……!
食べた瞬間、胃の中から全身へと極上の熱気が駆け巡り、ユキヒョウの巨体が幸せそうに震えた。
雪山に生きる彼らにとって、この「冷めない肉」は、まさに奇跡の太陽だったのだ。
ユキヒョウは我慢できなくなったように、氷の床に「でろーん」と寝そべり、幸せそうに太い尻尾を「パタン、パタン」と振って脱力した。
「美味しいですか。良かったです。では、少し失礼して」
食事に夢中になっている隙を突き、ロイドは両手を大きく広げた。
そして、ユキヒョウのアイデンティティとも言える、あの長く太い『尻尾』へと、神業の指先を添えたのである。
「おお……! おおおおお!! なんという驚異的な密度の快楽! 指を押し返すこの上質なカシミアのような弾力と、ユキヒョウちゃんが尻尾を振るたびに発生する熱の対流の心地よさ……! ああ、この尻尾をマフラーのように首に巻けば、私の魂の冷え性まで綺麗に完治されていくようです!」
「……ロイド様。あまりに激しく尻尾を揉むと、ユキヒョウが興奮して周囲の冷気を一気に『熱吸収』します。スーツの排熱機能が限界ですので、程々にしてください」
絶対零度のホールで、巨大な銀灰色の毛玉に埋もれながら悶絶するロイドと、それを無表情で見守るクラウス。
極上の熱振動ステーキと、かつて味わったことのない「尻尾はむはむ同調マッサージ」。
あまりの心地よさに、巨大ユキヒョウはついに冷気を出すのを止め、ロイドのスーツに巨体を「すりり……」と押し付けて甘えた声を漏らした。
「さあ、私と契約しましょう。三食昼寝、最高級の温かいお肉付き。不埒な兵器工作員に冷却材代わりにされない静かな氷壁で、思う存分はむはむするのです」
完全に骨抜きになったユキヒョウに対し、ロイドは、氷点下でも割れない【完全耐寒版・魔法契約書】を取り出す。
「印鑑は不要です。ここに、そのフワフワの『大きな前足』をペタッと押し付けてくださるだけで結構ですよ」
『ふにゃっ! ペタッ』
愛らしい返事と共に、ユキヒョウが契約書に自慢の右手を押し当てた。
すると、肉球の形を模した銀色のスタンプが浮かび上がり、契約が成立する。
『……ふやぁ。お兄ちゃんの手、とってもあったかいの……。もう変なドリルで氷を削られるのは嫌なの……』
「ええ。もう二度と、あなたのお昼寝を邪魔するゴミ(工作員)は通しませんよ」
毛並みの接触を通じて、涼やかな甘えん坊の声(念話)がロイドの脳内に届く。
足元でユキヒョウが喉を鳴らすたびに、周囲の氷壁からダイヤモンドダストがキラキラと舞い上がる中、ロイドは至福の笑みを浮かべた。
しかし、その超高級スーツの表面は、ユキヒョウに全力で「すりすり」された時の摩擦熱と冷気の衝突で、ロイド自身が「氷点下のドライアイス」のように白く煙を上げながら発光していた。
「……失礼します、ロイド様。動かないでください」
「ふふ、これぞ大氷壁の勲章ですよ、クラウ――って、シュゴォォォ! ズババババッ! って言いましたよ!?」
クラウスが無表情のまま取り出したのは、R&Dが開発した『霜取り全自動コロコロ(高速熱風噴射版)』だった。
シュゴォォォッ! という凄まじい吸引音と共に、ロイドのスーツから見事に霜の残滓を「一分子残さず」消去していく。
「な、なんて手際だ……。我々の最新鋭機ですら近寄れなかったあの凍結の魔獣を、ただのステーキ一個と、素手での『尻尾揉み』で手なずけてしまうなんて……!」
絶句する声に振り返ると、氷柱の陰から、特殊な耐寒服を着た男たちが数名、這い出してきた。
彼らは連邦の裏で動いていた『虚空の開拓者』の末端、ユキヒョウを兵器の冷却装置にしようとしていた氷結工作員たちだった。
「おや。こんな神聖な氷の寝室に、土足で踏み込んでいたのですか」
ロイドはコロコロをかけられながら、居住まいを正して彼らに向き直った。
「他人の食事を邪魔し、生命を冷却材に変え、あざとい尻尾はむはむを恐怖させる。……その下劣な振る舞い、高く評価いたしましょう。我が社の『資産凍結(経済的抹殺)』の対象としてね」
ロイドの瞳に宿った絶対零度の光に、工作員たちの面々は耐寒服を着ているのに魂が凍りついた。
「今日から、あなた方を我が『ワケアリ不動産』の専属・氷壁の霜取りおよびユキヒョウちゃんの『尻尾の毛の本数数え直し』係として再雇用してあげましょう。給料は……そうですね、一生かけて『自分がどれだけ冷徹な人間だったか反省する』仕事にふさわしい額に設定しておきますよ」
「な、なんだって……!?」
こうして、魔獣の保護と不法侵入者の確保は完了した。
ロイドは、満足げに自分の尻尾をロイドの首に巻き付けているユキヒョウを撫でながら、白銀の氷界を見渡す。
「クラウス。準備はいいですね?」
「はい、ロイド様。上空の魔導艦、並びに北域の救助部隊、すべて待機しております」
「では――我が一族のお家芸を披露しましょうか。この無価値な『暴走した熱吸収ベクトル』だけを綺麗に固定し、美しい『大氷壁スカイリゾート(更地)』にします」
ロイドが優雅に指を鳴らした、その直後。
氷壁の中心に向けて、熱力学を書き換える極大の『超広域・熱振動ベクトル固定および絶対零度安定』の光が、祭壇へと放たれた。




