第68話
――ぷきゅ、ぷきゅぅ……。
黄金都市エル・ドラドの最深部。
直径十五メートルを超える巨大なオレンジ色の「もちもち」が、自分に近づいてくる「絶対に潰れない異物」――ロイド・グランヴェルの存在を捉えていた。
普通の潜水艦なら、この距離に近づいただけで外殻が内側に弾けて鉄屑になるはずだ。
しかし、ロイドはまるで深海パーティーの主役のように、優雅に水圧の壁を割って目の前までやってくる。
「さあ、まずはこれをお召し上がりなさい。深海のプランクトンだけでは、その見事な『弾力』を維持するには栄養が足りませんからね」
ロイドは懐から、水圧で潰れない特殊な魔導真空ボトルを取り出した。
グランヴェル財閥『研究開発部(R&D)』が、深海魚のコラーゲンと高純度の水魔素を限界まで濃縮し、一滴で深海クジラが飛び起きるほど栄養価を高めた『極上・高圧魔力ゼリー』である。
ボトルを開けた瞬間、漆黒の海底に、ほんのりと甘い潮の香りと、黄金色の輝きが広がった。
『……ぷきゅ!?(なにこれ、すっごくプルプルでおいしそうピィ!)』
巨大メンダコのつぶらな瞳が、一斉に輝いた。
抗いがたい美食の香りに誘われ、吸盤のついた足を一本、器用に伸ばしてそのゼリーを「ちゅるり」と吸い込む。
――もちぃぃ。ポワァァァン……!
飲み込んだ瞬間、あまりの美味しさにメンダコの巨体が波打つようにビクンと跳ねた。
深海に生きる彼らにとって、これほど濃厚な魔力の塊は、まさに「神のパンケーキ」だったのだ。
メンダコは我慢できなくなったように、黄金の屋根の上に「でろぉん」と広がり、幸せそうにヒレをパタパタさせて脱力した。
「美味しいですか。良かったです。では、少し失礼して」
食事に夢中になっている隙を突き、ロイドは両手を大きく広げた。
そして、メンダコのアイデンティティとも言える、あの頭頂部の『耳のようなヒレ』へと、神業の指先を添えたのである。
「おお……! おおおおお!! なんという驚異的な復元力! 指を押し返すこの上質なマシュマロのような弾力と、ヒレがパタパタ動くたびに発生する微細な水流の心地よさ……! ああ、この吸盤の一つ一つに指を吸い付かせれば、私の毛穴の汚れまで綺麗にデトックスされていくようです!」
「……ロイド様。あまりに激しくヒレを揉むと、メンダコが興奮して周囲の海水を『急速圧縮』させます。スーツの耐圧バリアが過負荷で悲鳴を上げていますので、程々にしてください」
漆黒の海底で、巨大なオレンジ色の塊に埋もれながら悶絶するロイドと、それを無表情で見守るクラウス。
極上の魔力ゼリーと、かつて味わったことのない「指先パタパタ同調マッサージ」。
あまりの心地よさに、巨大メンダコはついに水圧の渦を出すのを止め、ロイドのスーツに巨体を「むちゅっ」と押し付けて甘えた声を漏らした。
「さあ、私と契約しましょう。三食昼寝、最高級の魔力ゼリー付き。不埒な海底盗掘者に邪魔されない静かな黄金都市で、思う存分もちもちするのです」
完全に骨抜きになったメンダコに対し、ロイドは、高水圧下でも破れない【完全耐圧版・魔法契約書】を取り出す。
「印鑑は不要です。ここに、その愛らしい『吸盤』をペタッと押し付けてくださるだけで結構ですよ」
『ぷきゅっ! ぺちょん』
愛らしい返事と共に、メンダコが契約書に自慢の足を押し当てた。
すると、吸盤の形を模したオレンジ色のスタンプが浮かび上がり、契約が成立する。
『……ふやぁ。お兄ちゃんの手、とってももちもちピィ。もう変な潜水艦で突っつかれるのは嫌だピィ』
「ええ。もう二度と、あなたのお昼寝を邪魔するゴミ(盗掘団)は通しませんよ」
吸盤の接触を通じて、涼やかな甘えん坊の声(念話)がロイドの脳内に届く。
足元でメンダコが身をくねらせるたびに、海底の黄金の塵がキラキラと舞い上がる中、ロイドは至福の笑みを浮かべた。
しかし、その超高級スーツの表面は、メンダコに全力で「ぎゅー」とされた時の吸着跡と粘液で、ロイド自身が「オレンジ色の水まんじゅう」のように艶々に光り輝いていた。
「……失礼します、ロイド様。動かないでください」
「ふふ、これぞ深海黄金都市の勲章ですよ、クラウ――って、シュゴォォォ! ズババババッ! って言いましたよ!?」
クラウスが無表情のまま取り出したのは、R&Dが開発した『水垢全自動弾き飛ばしコロコロ(超高圧噴射版)』だった。
シュゴォォォッ! という凄まじい吸引音と共に、ロイドのスーツから見事に深海のヌメリを「一分子残さず」消去していく。
「な、なんて手際だ……。我々の最新鋭潜水艦ですら近寄れなかったあの圧殺の魔獣を、ただのゼリー一個と、素手での『ヒレ揉み』で手なずけてしまうなんて……!」
絶句する声に振り返ると、崩れた黄金の柱の陰から、ボロボロの潜水服を着た男たちが数名、這い出してきた。
彼らは海洋局の裏で動いていた『虚空の開拓者』の末端、黄金を圧縮回収しようとしていた海底工作員たちだった。
「おや。こんな神聖なお昼寝場所に、土足で踏み込んでいたのですか」
ロイドはコロコロをかけられながら、居住まいを正して彼らに向き直った。
「他人の食事を邪魔し、歴史を圧縮し、あざとい吸盤を恐怖させる。……その下劣な振る舞い、高く評価いたしましょう。我が社の『資産接収(経済的抹殺)』の対象としてね」
ロイドの瞳に宿った絶対零度の光に、工作員たちの面々は深海でもないのに窒息しそうになった。
「今日から、あなた方を我が『ワケアリ不動産』の専属・海底遺跡清掃およびメンダコちゃんの『足の数え直し』係として再雇用してあげましょう。給料は……そうですね、一生かけて『自分がどれだけもちもちを軽視していたか反省する』仕事にふさわしい額に設定しておきますよ」
「な、なんだって……!?」
こうして、魔獣の保護と不法侵入者の確保は完了した。
ロイドは、満足げにヒレをパタつかせているメンダコを撫でながら、暗黒の海底を見渡す。
「クラウス。準備はいいですね?」
「はい、ロイド様。上空の魔導艦、並びに海上の回収部隊、すべて待機しております」
「では――我が一族のお家芸を披露しましょうか。この無価値な『狂った水圧ベクトル』だけを綺麗に固定し、美しい『深海黄金リゾート(更地)』にします」
ロイドが優雅に指を鳴らした、その直後。
海上の魔導艦から、海底の流体力学を書き換える極大の『超広域・水圧ベクトル固定および海水分分子安定』の光が、深海へと放たれた。




