第67話
ゴォォォォォ……ッ。
潜行を開始して数分。本来なら、鋼鉄の壁が悲鳴を上げ、人の肉体など瞬時に圧搾されるはずの深海域。
しかし、黄金の神殿が眠る海底を歩くロイド・グランヴェルの足取りは、まるでホテルのレッドカーペットを歩くように優雅で、驚くほど軽やかだった。
「……なるほど。全方位から均等に迫るこの圧力。確かに、普通の生物なら分子レベルで圧縮されてしまうでしょうね」
ロイドは、漆黒の海中でぼんやりと光る黄金の柱に触れながら、満足げに呟いた。
「外部水圧、一万デシベルを突破。通常の潜水艦であれば、十秒前に塵となって消えています。……ですが、このスーツの『斥力場型・空間維持バリア』により、スーツ内部は現在『地上一気圧、湿度五十パーセント』の完璧なオフィス環境が維持されています」
背後を歩く秘書官のクラウスが、無表情のままタブレットを操作し、現在の環境データを読み上げる。
二人が身に纏っているのは、グランヴェル財閥『研究開発部(R&D)』が「弟が海に抱きしめられるのは私だけで十分だ。深海の水圧ごときにその特権は譲らん」という総帥の狂気じみた嫉妬を受けて開発した【完全耐圧・深海散歩用スリーピース】である。
スーツの表面に展開された微細な『重力偏向フィールド』が、迫りくる数万トンの水圧をすべて「横」へと受け流しているのだ。
「素晴らしい。これなら、極上の『もちもちパタパタ・エステ』に何時間でも没頭できそうですね」
ロイドが微笑んだ、その時だった。
――パタ、パタパタ……。
黄金の神殿の屋根の上。
暗闇の中で、一対の「耳のようなヒレ」が、愛らしくもリズミカルに動いているのが見えた。
ライトが照らし出したのは、直径十五メートルを超える、信じられないほど鮮やかなオレンジ色をした、もちもちの巨体――巨大メンダコだった。
『……ぷきゅ?(なんだか、あたたかいのがきたピィ?)』
巨大メンダコは、黄金の屋根の上にパンケーキのように平べったく広がり、大きな目をパチパチさせていた。
彼が呼吸し、ヒレを動かすたびに、周囲の海水が共鳴して強烈な「水圧の渦」を発生させていたのである。
「おお……おおおお……!!」
冷静なクラウスの横で、ロイドは目をカッと見開き、感嘆の声を漏らした。
その瞳に宿っているのは、深海の恐怖などではない。極限まで高まった、偏愛に満ちた『弾力への愛』である。
「見なさい、クラウス! あの、重力に逆らうことを諦めたかのような、究極の『平たさ』! パタパタと動く小さなヒレの、なんと頼りなげで愛らしいことか! 間違いない、あれぞ『深海の暗黒に舞い降りた、巨大な生カスタードプリン』です!!」
『……ぷきゅぅ?』
騒がしい侵入者の声に気づき、巨大メンダコがその巨体をゆっくりと「もちっ」と持ち上げた。
その瞳は、獲物を狙う深海生物の鋭さは皆無であり、ただ純粋に「……だれ? ぼくといっしょに、ぎゅーする?」と言いたげに、ロイドのスーツが放つ微かな熱気に身を乗り出してきた。
「なるほど。次官たちが『圧殺の地獄』と恐れていた水圧の正体は、メンダコちゃんが『寂しくて、誰かを抱きしめようとして全力で吸盤を吸い付かせていただけ』でしたか。なんと愛情深く、なんと力強いスキンシップでしょう!」
自分を肉片に変えようとする致命的な抱擁を、特注スーツの耐圧機能でただの「心地よい着圧マッサージ」に変えながら、ロイドは無傷のまま、至福の笑みを浮かべて両手を広げた。
「あのもちもちした頭部を優しく撫で、ヒレのパタパタに合わせて指を動かす……。考えただけで、財閥の海洋権益をすべて放棄しても惜しくないほどの価値を感じます! ああ、なんて贅沢なパンケーキ(メンダコ)なのでしょうか!」
「……ええ。おっしゃる通り、私のカバンに用意した『水垢全自動弾き飛ばしコロコロ』の出番ですね。後で急激な水圧変化によるスーツの縫い目の微細な歪み調整代も、経理に請求しておきます」
一万メートルの海底で一人熱狂するロイドと、無表情で特注コロコロを構える秘書官クラウス。
そんな規格外の人間たちを前に、巨大メンダコは「……ぷきゅ? このニンゲン、つぶれないし、もちもちしてるピィ」という顔で、大きな吸盤のついた足を一本、ロイドの肩に「ぺちょん」と乗せた。
「怖がらなくて大丈夫ですよ。……さあ、私が極上の『深海用・もちもち魔力ゼリー』と、ヒレ裏専用のマッサージを用意して差し上げましょう」
ロイドは一切の警戒もなく、世界で最も優雅な足取りで、あらゆる潜水艦を粉砕する水圧の渦を滑るように巨大なメンダコのもとへと歩み寄り始めた。
黄金の都市を飲み込む暗黒の地獄で、冷徹な御曹司による『最高にウェットでもちもちな買収劇』が、今、幕を開ける。




