第65話
かつて足を踏み入れた者が自分を見失う「忘却の地獄」だった空中庭園は、今や大陸中の不眠症患者が涙を流して憧れる『絶対安眠・天空オルゴール・ドーム』へと変貌を遂げていた。
総帥アルベルトが投じた白金貨七億枚。
巨大な真空クリスタルドーム内には、聴く者の精神を優しく愛撫する「究極の子守唄」が二十四時間流れ続けている。
虹色の雲の上では、巨大バクたちが「ズビィ……」と幸せそうに長い鼻を丸め、シルクのアイマスクを装着して深い眠りについていた。
「素晴らしい……。この、耳元をくすぐる純白金製オルゴールの調べ。そして、鼻先から伝わるバクちゃんたちの『安らかな寝息』。これぞ、人類が到達すべき真の休息です……!」
『ズズゥ……(お兄ちゃん、もうお腹いっぱいピィ……)』
オルゴールの微かな振動を浴びながら、ロイド・グランヴェルは、膝の上で完全に液体化しているバクの鼻を、優しくリズムに合わせてトントンと叩いていた。
その横では、秘書官のクラウスが無表情のまま、ロイドのスーツに付着した虹色の霧の残滓を『記憶のシミ取りコロコロ(精神波吸引版)』で「シュゴォォォッ! ズババババッ!」と凄まじい吸引音と共に完全に消去している。
そこに、無機質な警告音が安眠の静寂を切り裂いた。
「無駄だ、ロイド・グランヴェル! この『記憶抽出アンテナ』が起動すれば、帝都全域から『グランヴェル財閥への信頼』という非効率な感情を削除し、我々オーディンの理念を上書きする! 貴様の愛するバクも、ただの増幅器として使い潰してやろう!!」
庭園の中央にそびえ立つ魔導アンテナから、ドロリとした漆黒の「忘却波」が放射されようとした。
彼らは「効率」のために人々の心を空っぽにし、管理しやすい「部品」に変えようとする、意識情報統制班の精鋭だった。
「幸福などという不確かな記憶は、生産性を落とすノイズに過ぎない! さあ、すべてを忘れて我々の駒となれ!!」
リーダー格の男がスイッチを押そうとした、その時だった。
「……なるほど。誰かを愛した記憶も、モフモフの柔らかな感触も『ノイズ』と切り捨てる。……あなた方の作る世界は、随分と埃っぽくて居心地が悪そうですね」
ロイドは溜息を一つ吐くと、バクの鼻を抱きかかえたままゆっくりと立ち上がった。
その瞳には、先ほどまでの慈愛など微塵もない。世界を裏から支配する、冷徹な特命代理としての貌だった。
「クラウス」
「はい、ロイド様。――ゴミデータの『強制上書き(フォーマット)』を開始します」
クラウスがタブレットのエンターキーを叩いた瞬間。
ドーム全体に張り巡らされた「安眠オルゴール塔」が、逆位相の魔導音波を放出した。
工作部隊が放とうとした「忘却波」は、オルゴールの優しい音色に包み込まれた瞬間に「ただの子守唄」へと変換され、アンテナそのものが巨大な『アロマディフューザー』へと作り変えられた。
「な、なんだと……!? 我々の洗脳プログラムが、ただの眠気を誘う音楽に負けただと……!?」
「『虚空の開拓者』。あなた方が人々の記憶を弄ぼうとしたそのアンテナ……。維持管理費を我が社が全て肩代わりし、法的にも物理的にも『我が社の備品』として接収させていただきましたよ」
ロイドは空中に巨大なホログラムウィンドウを展開した。
そこに映し出されたのは、帝都の法務大臣と、国際精神衛生連盟の理事長だった。
「大臣、ならびに理事長。お疲れ様です」
『はっ! ロイド様! 例の工作部隊による『不法な記憶操作実験』の証拠、および全資金ルート、すべて押さえました!』
工作班のリーダーはその顔ぶれを見て、虹色の雲の上でへたり込んだ。
(バカな、我々のステルス通信が筒抜けだったというのか……!)
「あなたが『人々の脳をハッキングして奪う』という野蛮な作業をしている間に、我が社は帝都全域の『精神医療インフラ』と『安眠グッズの流通権』を独占的に買い占めておきました。……つまり、現在あなたが使用しているその思考回路のメンテナンス権すら、我が財閥の管理下にあります」
ロイドは、極上の微笑みを浮かべて、情報工作員たちの息の根を止める完璧な提案を披露した。
「大臣。この男たちの不正の全容を、直ちに全市民の脳内ニュースへ配信してください。没収したアンテナは、直ちに『帝都国立・快眠センター』の基幹放送局として無償開放します。……ここの安眠ドームから、市民全員に『最高に幸せな二度寝の夢』を毎日プレゼントするのです」
法務大臣たちが、感銘を受けたように深く頷く。
『素晴らしいご提案です! これにより帝都のストレス値はゼロになり、同時に闇の思想統制ルートも完全に断たれます! ロイド様、あなたは民に安らぎを与える守護神だ!』
「ま、待ってくれ! 我々の高尚な情報統制技術を、ただの快眠サポートに使うというのか!? そんな生産性のない……!」
「生産性? ……そうですね。私にとって最も価値があるのは、この子が二度寝をして、夢の中で『大きな鼻をぷるぷる』させる、この無意味で最高に贅沢な時間ですから」
ロイドの冷徹な宣告に、工作班のリーダーは言葉を失い、絶望のあまり深い眠り(強制気絶)に落ちた。
「お引き取りを。あなたの下劣な洗脳波では、バクちゃんが、夢の中で食べる悪夢の味が落ちてしまいますので」
ロイドが優雅に指を鳴らした直後。
工作部隊の醜い命乞いは、財閥法務部(回収班)によって物理的に塞がれ、そのまま一生消えない「モフモフを愛さなかった後悔」を夢に見続ける刑務所へと強制連行されていった。
ほんの数分。
一滴の血も流さず、一つの巨大な闇組織の情報拠点が社会から消去され、同時に空中庭園が「全市民の安眠の聖地」へと浄化されたのである。
「……ふぅ。まったく、せっかくの鼻筒タイムを邪魔されるとは」
ロイドが視線を落とすと、巨大バクが「ズズゥ……」と嬉しそうに鳴きながら、ロイドのスーツの胸元に長い鼻を吸い付けてきた。
「ああ、お待たせしましたね。さあ、もう一度、極上の鼻マッサージを楽しみましょうか」
先ほどまでの冷徹な顔は幻であったかのように、ロイドは目を細め、愛しいバクの長い鼻に沈み込んだ。
「……ロイド様。工作員の接収、およびこの空中庭園の『特級快眠リゾート・独占運用権』の取得が完了しました。我が社がドームを建設したことで、この空の地価は大陸最大の癒やし拠点として天文学的に跳ね上がっております」
クラウスが無表情のまま、『記憶のシミ取りコロコロ』を「ガシュゥゥッ!」とロイドの背中に転がす。
「素晴らしい。これで、この子たちのためにさらに極上の環境を整えられますね」
破壊者を経済と権力で轢き潰し、人々の安眠を守りながら、浄化された空中から莫大な富を生み出す。
世界一理不尽で、世界一優雅なワケアリ不動産の快進撃は、とどまることを知らない。




