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第63話




 ――ズズズゥゥ……、ズズッ!


 空中庭園の最深部。

 虹色に蠢く巨大な鼻の先が、自分に近づいてくる「記憶を吸い取れない異物」――ロイド・グランヴェルの存在を捉えていた。


 普通の人間なら、この鼻先に触れた瞬間に人生のすべてを忘れて廃人になるはずだ。

 しかし、ロイドはまるで高級ホテルのラウンジを歩くように、極彩色の霧を掻き分けて目の前までやってくる。


「さあ、まずはこれをお召し上がりなさい。野性の夢(記憶)では、どうしても幸せな成分が混じって、あなた方の胃には少々刺激が弱すぎますからね」


 ロイドは懐から、精神波を遮断する特殊な魔導ケースを取り出した。

 グランヴェル財閥『研究開発部(R&D)』が、大陸中の重役たちの「納期前の絶望」や「中間管理職の悲哀」を抽出し、限界まで煮詰めて凝縮した『極上・激辛悪夢キャンディ(ストレス1000%仕立て)』である。


 ケースを開けた瞬間、周囲の霧が黒く染まるほどの、強烈でドロリとした「負のエネルギー」が広がった。


『……ズズッ!?(なにこれ、すっごく苦くて美味しそうピィ!)』


 巨大バクのルビー色の瞳が、一斉に輝いた。

 抗いがたい絶望の香りに誘われ、長い鼻を「シュルリ」と伸ばして、その漆黒のキャンディを一気に吸い込む。


 ――ゴキュリ。ポワァァァン……!


 飲み込んだ瞬間、あまりの「毒気」の旨さにバクの巨体がビクンと跳ねた。

 人にとっては致死量を超える悪夢も、夢喰いバクにとっては最高にパンチの効いたジャンクフードだったのだ。

 バクは我慢できなくなったように、長い鼻をロイドの足元に投げ出し、幸せそうに「ズビィ……」と鼻を鳴らして脱力した。


「美味しいですか? 良かったです。では、少し失礼して」


 悪夢に夢中になっている隙を突き、ロイドは両手を大きく広げた。

 そして、バクのアイデンティティとも言える、あの長く太い『鼻』を抱きかかえるようにして、『全周・鼻筒はなづつ揉みほぐし』を開始したのである。


「おお……! おおおおお!! なんという吸引圧の弾力! 指先に吸い付くような粘膜のしなやかさと、霧を吐き出す瞬間のリズミカルな収縮……! ああ、鼻の筒の中に腕を差し込めば、私の精神的な垢まで綺麗にバキュームされていくようです!」


「……ロイド様。あまりに激しく鼻を揉むと、バクが興奮して周囲の霧を逆流リバースさせます。スーツの精神洗浄フィルターが詰まりますので、程々にしてください」


 極彩色の霧の中で、巨大な鼻を抱き枕のようにして悶絶するロイドと、それを無表情で見守るクラウス。

 極上の激辛悪夢と、かつて味わったことのない「全周・鼻筒揉みほぐし」。

 あまりの心地よさに、巨大バクはついに霧を出すのを止め、ロイドのスーツに鼻先を「チュパッ」と吸い付かせて甘えた声を漏らした。


「さあ、私と契約しましょう。三食昼寝、最高級の激辛悪夢付き。不埒な情報工作員に邪魔されない静かな空中庭園で、思う存分二度寝を楽しむのです」


 完全に骨抜きになったバクに対し、ロイドは、精神干渉を一切許さない【完全夢境版・魔法契約書】を取り出す。


「印鑑は不要です。ここに、そのフワフワの『鼻先』をペタッと吸い付けてくださるだけで結構ですよ」


『ズズッ! チュパッ』


 愛らしい返事と共に、バクが契約書に自慢の鼻を吸い付けた。

 すると、鼻の穴の形を模した虹色のスタンプが浮かび上がり、契約が成立する。


『……ふやぁ。お兄ちゃん、とってもいい匂いピィ。もう変なアンテナで無理やり幸せを食べさせられるのは嫌だピィ』


「ええ。もう二度と、あなたの食事を汚すゴミ(工作員)は通しませんよ」


 長い鼻を通じて、涼やかな甘えん坊の声(念話)がロイドの脳内に届く。


 足元でバクが鼻を蠢かせるたびに、虹色の霧がキラキラと舞い上がる中、ロイドは至福の笑みを浮かべた。

 しかし、その超高級スーツの表面は、バクに吸い付かれた時の負圧バキュームと霧の成分で、ロイド自身が「虹色の真空パック」のようにピッチリと引き締まっていた。


「……失礼します、ロイド様。動かないでください」


「ふふ、これぞ忘却の空中庭園の勲章ですよ、クラウ――って、シュゴォォォ! ズババババッ! って言いましたよ!?」


 クラウスが無表情のまま取り出したのは、R&Dが開発した『記憶のシミ取りコロコロ(精神波吸引版)』だった。

 シュゴォォォッ! という凄まじい吸引音と共に、ロイドのスーツから見事に精神的な霧のシミを「一分子残さず」消去していく。


「な、なんて手際だ……。我々の最新鋭アンテナですら制御しきれなかったあの忘却の王を、ただの飴玉一つと、素手での『鼻揉み』で手なずけてしまうなんて……!」


 絶句する声に振り返ると、庭園の植え込みの陰から、防護服を着た男たちが数名、這い出してきた。

 彼らは観光局の裏で動いていた『虚空の開拓者』の末端、記憶抽出の実験を行っていた工作員たちだった。


「おや。こんな神聖な昼寝場所に、土足で踏み込んでいたのですか」


 ロイドはコロコロをかけられながら、居住まいを正して彼らに向き直った。


「他人の食事を汚し、記憶を盗み、あざとい鼻を不快にさせる。……その下劣な振る舞い、高く評価いたしましょう。我が社の『記憶消去(経済的抹殺)』の対象としてね」


 ロイドの瞳に宿った絶対零度の光に、工作員たちの面々は腰を抜かした。


「今日から、あなた方を我が『ワケアリ不動産』の専属・悪夢抽出および庭園清掃員として再雇用してあげましょう。給料は……そうですね、一生かけて『自分が誰だったか思い出す』仕事にふさわしい額に設定しておきますよ」


「な、なんだって……!?」


 こうして、魔獣の保護と不法侵入者の確保は完了した。

 ロイドは、満足げに鼻をピクピクさせているバクを撫でながら、極彩色の空を見渡す。


「クラウス。準備はいいですね?」


「はい、ロイド様。上空の魔導艦、並びに地上部隊、すべて待機しております」


「では――我が一族のお家芸を披露しましょうか。この無価値な『忘却の霧と認識阻害』だけを綺麗に固定し、美しい『天空の快眠リゾート(更地)』にします」


 ロイドが優雅に指を鳴らした、その直後。

 帝都の空から、空中庭園の湿度と精神波を書き換える極大の『超広域・空間湿度固定および認識阻害解除』の光が、霧へと放たれた。




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