第62話
フワァァァ……。
一歩足を踏み入れた瞬間から、そこは色彩が溶け合う『忘却の迷宮』だった。
空中庭園を覆う霧は、真珠の光を反射したように美しく輝いているが、その実体は人の意識を朦朧とさせ、魂の記憶を剥ぎ取る死の魔力。
数分も留まれば、自分が何者で、なぜここにいるのかさえ思い出せなくなる、静かな地獄である。
「……なるほど。確かにこれは、強力な精神干渉ですね。脳の神経細胞に直接働きかけ、特定の記憶を霧散させているようです」
しかし。
そんな「自分を失う」はずの霧の中を歩くロイド・グランヴェルの足取りは、まるで昼下がりのティーサロンへと向かうように軽やかで迷いがなかった。
「周囲の精神干渉波、計測不能なレベルまで上昇。普通の人間であれば、一歩目で幼児退行します。……ですが、このスーツの『現実安定精神防壁』により、ロイド様の脳波は現在『完璧な平常心と、異常なまでのモフモフ欲』に固定されています」
背後を歩く秘書官のクラウスが、無表情のままタブレットを操作し、現在の環境データを読み上げる。
二人が身に纏っているのは、グランヴェル財閥『研究開発部(R&D)』が「弟が誰かに洗脳されたり、私のことを忘れたりするなど、全宇宙の損失である」という総帥の狂信的な執念を受けて開発した【完全精神防壁・夢境安定スリーピーススーツ】である。
ネクタイの結び目に埋め込まれた『絶対我執核』が、着用者の自己認識を強制的に固定し続けているのだ。
どれほど忘却の霧が脳を揺さぶろうとも、ロイドの「私はロイド・グランヴェルであり、モフモフを愛する者である」という核は、ダイヤより硬く守られていた。
「素晴らしい着心地です。これなら、極上の『吸引(鼻)マッサージ』に何時間でも集中できそうですね」
ロイドが満足げに微笑んだ、その時だった。
――ズズゥゥ……、ズズズゥ……。
霧の向こう側から、まるで巨大な掃除機が空気を吸い込むような、不気味で重厚な音が響いてきた。
見上げると、霧の塊が渦を巻き、そこから『虹色に光る長い蛇のような物体』がニュルリと突き出された。
「ロイド様。来ます」
「ええ、待っていましたよ。……なんと、想像を絶する『吸いつき』の予感ですね!」
霧の中から姿を現したのは、体長十メートルを超える、虹色の毛並みを持つ巨大なバクだった。
その背中には雲のような白い毛が重なり、太く短い脚には丸い爪がある。そして何より目を引くのは、意思を持っているかのように蠢く、あの『長く太い鼻』である。
『……ズズゥ?(なんだか、吸い込めないピィ……?)』
巨大バク(夢幻獏)は、霧の中から長い鼻を伸ばし、ロイドの頭の周囲を「クンクン」と嗅ぎ回った。
本来なら、その鼻先が触れた瞬間に記憶はすべて吸い取られるはずだが、ロイドのスーツの防壁が火花を散らしてそれを防いでいる。
「おお……おおおお……!!」
冷静なクラウスの横で、ロイドは目をカッと見開き、感嘆の声を漏らした。
その瞳に宿っているのは、精神崩壊への恐怖などではない。極限まで高まった、倒錯的な『鼻への愛』である。
「見なさい、クラウス! あの、自由自在に伸縮し、こちらの記憶を根こそぎ奪おうとする強欲な鼻のフォルム! 毛先まで虹色の輝きを放ち、実体があるのかないのか判然としない幻想的な毛並み! 間違いない、あれぞ『抱きつかれたら最後、一生眠り続けたくなる究極の寝具』です!!」
『……ズズッ?』
騒がしい侵入者の声に驚き、巨大バクが長い鼻を「キュッ」と縮めた。
その仕草は、獲物を襲う魔獣の恐怖ではなく、まるで掃除機の吸引力が足りなくて困惑している家電製品のような、どこか抜けた愛嬌があった。
「なるほど。局長たちが『忘却の墓場』と恐れていた霧の正体は、バクちゃんが『お腹が空きすぎて、周囲の夢を見境なくダイソンしていただけ』でしたか。なんと食いしん坊で、なんと効率的なお掃除機能でしょう!」
自分の魂を吸い出そうとする絶死の吸引力を、特注スーツの防壁でただの「心地よいヘッドスパ」に変えながら、ロイドは無傷のまま、至福の笑みを浮かべて両手を広げた。
「あの長い鼻の先を優しく揉み、吸引のリズムを整えてあげる……。考えただけで、財閥の全権を委譲しても惜しくないほどの価値を感じます! ああ、なんて贅沢な掃除機なのでしょうか!」
「……ええ。おっしゃる通り、私のカバンに用意した『記憶のシミ取りコロコロ』の出番ですね。後で急激な精神波の干渉によるスーツの記憶形状合金の歪み修繕代も、経理に請求しておきます」
忘却の霧の中で一人熱狂するロイドと、無表情で特注コロコロを構える秘書官クラウス。
そんな規格外の人間たちを前に、巨大バクは「……ズズゥ? このニンゲン、吸っても吸っても中身(愛)が減らないピィ」という顔で、不思議そうに長い鼻をパタパタと左右に振った。
「怖がらなくて大丈夫ですよ。……さあ、私が極上の『激辛・悪夢キャンディ』と、鼻先専用のマッサージを用意して差し上げましょう」
ロイドは一切の警戒もなく、世界で最も優雅な足取りで、魂を吸い取る霧を滑るように巨大なバクのもとへと歩み寄り始めた。




