第57話
ザザァァァ……ッ!
一歩足を踏み入れた瞬間から、そこは黄金の死神が手招きする『流動の地獄』だった。
一見すれば美しい砂丘だが、その実態は、あらゆる質量を底なしの暗黒へと引きずり込む巨大な蟻地獄。最新の魔導戦車ですら、キャタピラが空回りした瞬間に砂の藻屑となる絶望の聖域である。
「……なるほど。確かにこれは、ただの自然現象ではありませんね。砂の粒子一つ一つが、意思を持っているかのように複雑な対流を起こしています」
しかし。
そんな「沈む」はずの砂の上を歩くロイド・グランヴェルの足取りは、まるで雲の上を散歩するかのように軽やかで優雅だった。
「地盤の沈下速度、毎秒十メートルを突破。普通の靴であれば、膝まで埋まるのに一秒とかかりません。……ですが、このスーツの『擬似重力相殺機能』により、接地圧は現在『綿毛一個分』に調整されています」
背後を歩く秘書官のクラウスが、無表情のままタブレットを操作し、現在の環境データを読み上げる。
二人が身に纏っているのは、グランヴェル財閥『研究開発部(R&D)』が「弟を泥沼や流砂で汚すなど、財閥の末代までの恥」という総帥の狂気を受けて開発した【完全浮遊・防塵気密循環スリーピーススーツ】である。
靴底からは微細な『反重力波』が常に放出されており、ロイドが歩くたびに、流れる砂の表面を滑るように移動する。さらに防塵コーティングにより、砂埃一つ、スーツの繊維に侵入することすら許さない。
「素晴らしい着心地です。これなら、極上の『サラサラ耳マッサージ』に何時間でも没頭できそうですね」
ロイドが満足げに微笑んだ、その時だった。
――ピクッ。
遺跡の頂上、巨大な太陽の石像の陰から、顔の半分ほどもある『巨大な三角形の耳』が二つ、左右にピコピコと動いて現れた。
続いて現れたのは、砂漠の熱気を一切感じさせない、サラサラとした黄金色の毛並みに包まれた巨大なフェネックだった。
『キュルルゥ……?』
そのフェネックは、まるで巨大な砂場を独り占めしている子供のように、遺跡の屋上で豪快にゴロゴロと転げ回っていた。
彼が背中を砂に擦り付け、尻尾をバタつかせるたびに、遺跡周辺の砂が共鳴して巨大な「流砂の渦」を作り出していたのである。
「おお……おおおお……!!」
冷静なクラウスの横で、ロイドは目をカッと見開き、感嘆の声を漏らした。
その瞳に宿っているのは、底なしの恐怖などではない。極限まで高まった、狂おしいほどの『大きな耳への愛』である。
「見なさい、クラウス! あの、顔の面積を無視した圧倒的な『耳』の存在感! 放熱用だという生物学的理由すら置き去りにする、あの究極の三角形! 間違いない、あれぞ『砂漠に舞い降りた、聴覚特化型の天使』です!!」
『……キュッ?』
騒がしい侵入者の声に気づき、巨大フェネックが砂の中から顔を上げた。
その瞳は、獲物を狙う魔獣の鋭さは皆無であり、ただ純粋に「……だれ? ぼくの砂遊び、まぜてくれるの?」と言いたげに、大きな耳をパタパタと羽ばたかせていた。
「なるほど。特使たちが『底なしの地獄』と恐れていた流砂の正体は、フェネックちゃんが『遺跡を巨大な砂風呂だと思って、全力で背中を洗っていただけ』でしたか。なんと健康的で、なんと清潔好きなのでしょう!」
自分を飲み込もうとする数万トンの砂の奔流を、特注スーツの浮遊機能でただの「心地よい振動」に変えながら、ロイドは無傷のまま、至福の笑みを浮かべて両手を広げた。
「あの大きな耳の付け根に指を差し込み、砂漠の風を感じながら揉みほぐす……。考えただけで、財閥の半分を切り崩しても惜しくないほどの価値を感じます! ああ、なんて贅沢な砂遊びなのでしょうか!」
「……ええ。おっしゃる通り、私のカバンに用意した『砂粒全自動弾き飛ばしコロコロ』の出番ですね。後で微細な砂の摩擦によるスーツの静電気中和メンテナンス代も、経理に請求しておきます」
底なしの流砂の中で一人熱狂するロイドと、無表情で特注コロコロを構える秘書官クラウス。
そんな規格外の人間たちを前に、巨大フェネックは「……キュ? あのニンゲン、ぜんぜん沈まないキュ」という顔で、一斉に大きな耳を左右に傾けた。
「怖がらなくて大丈夫ですよ。……さあ、私が極上の『最高級・洗浄済み砂場』と、耳の裏専用のマッサージを用意して差し上げましょう」
ロイドは一切の警戒もなく、世界で最も優雅な足取りで、あらゆるものを飲み込む流砂を滑るように巨大なフェネックのもとへと歩み寄り始めた。




