第48話
――ズバァァァァァッ!!
何度、フワフワの長い耳で空間の断層(斬撃)を飛ばしても、目の前のニンゲンは真っ二つにならない。
それどころか、次元の裂け目を「心地よいそよ風」のように浴びながら、うっとりとした表情で近づいてくる。
『……キュ? キュゥゥ……?』
あざとい上目遣いをキープしたまま、純白の次元兎は不思議そうに小首を傾げた。
自分の縄張りであるこの地下市場で、空間のバグをものともしない存在など初めてだったからだ。
「さあ、まずはこれを。こんなぐにゃぐにゃに歪んだ空間でかくれんぼをしていては、お腹が空いてしまうでしょう」
ロイドは懐から、空間の歪みに干渉されない特殊な魔導ケースを取り出した。
グランヴェル財閥『研究開発部(R&D)』のエリートたちが、高純度の空間魔素と極上の甘みを特異点レベルまで圧縮して作り上げた、『極上・空間マタタビ(次元圧縮仕立て)』である。
ケースを開けた瞬間、周囲の歪んだ空間すらもピタリと固定してしまうほどの、強烈で芳醇な「甘い引力」が広がった。
『キュッ……!?』
次元兎のルビーのような瞳が、カッと見開かれた。
抗いがたい香りに誘われ、おそるおそる短い前足を伸ばし、ブラックホールのように凝縮された極上のマタタビを一口かじる。
――ぽわぁぁぁん……。
噛み砕いた瞬間、口いっぱいに広がる三次元を超越した極上の甘みと、脳髄を溶かすような多幸感。
空間を切り裂く恐ろしい神獣は、開始三秒であっさりと陥落し、あざとい上目遣いのまま「きゅぅん……」と床に転がり、無防備な純白のお腹を投げ出した。
「美味しいですか? 良かったです。では、少し失礼して……」
空間マタタビに夢中になっている隙を突き、ロイドは両手を大きく広げた。
そして、神がかった手つきで、物理法則を無視した純白の被毛に両腕を埋め込み、『現実安定マッサージ(極上の生地こね)』を開始したのである。
「素晴らしい……! 押せば空間が沈み込み、離せば宇宙が膨張するかのようにふんわりと形を戻す! この『次元のシワ』を優しく伸ばしていくような、圧倒的な弾力と手触り……! ああ、まるで最高級のブラックホールを撫で回しているようです!」
「……ロイド様。あまり激しくこね回すと、兎の体内でマイクロブラックホールが発生し、帝都の地下ごと飲み込まれますので、程々にしてください」
次元の狭間で狂喜乱舞しながら純白のウサギに顔を埋めるロイドと、それを無表情で見守るクラウス。
極上のおやつと、かつて味わったことのない至高の現実安定マッサージ。無限ループの孤独な遊び場から一転、天国のような心地よさに包まれた次元兎は、すっかり警戒心を解き、ロイドの腕の中で「キュルルル……」と喉を鳴らした。
「さあ、私と契約しましょう。三食昼寝、極上の次元スナック付き。完全に座標が固定された広大な地下商業スペースで、のんびり暮らすのです」
完全に骨抜きになった次元兎に対し、ロイドは涼しい顔で一枚の特殊な羊皮紙を取り出した。
「インクは不要です。ここに、その可愛らしい『肉球』をポンと乗せるだけで結構ですよ」
『キュッ! ぷにっ』
愛らしい鳴き声と共に、次元兎は自ら進んで前足を伸ばした。
しかし、その肉球が触れたのは羊皮紙ではなく、ロイドの目の前の『何もない空間』だった。
――ピキィンッ!
空間そのものに、淡く光るピンク色の『肉球のスタンプ』が刻み込まれた。
物理的な紙ではなく、この地下市場の次元そのものに直接契約の捺印(バグの上書き)を施したのだ。
『……んふぅ。お兄ちゃんの手、すっごくふかふかキュ。もっと撫でてキュ』
「おや。なんともあざとくて、愛らしい声ですね。ええ、いくらでも次元ごと撫でて差し上げますよ」
甘えん坊な声(念話)が、ロイドとクラウスの脳内に響く。
足元でフワフワの毛玉と化した神獣を抱きしめながら、ロイドは至福の笑みを浮かべた。
しかし、その超高級スーツの表面は、次元兎の被毛と擦れ合ったせいで空間がバグり、服の袖がポリゴン状に透けたり、ネクタイが四次元に消えかかったりという、凄まじい「テクスチャの乱れ(次元のゴミ)」を引き起こしていた。
「……失礼します、ロイド様。動かないでください」
「ふふ、これぞ次元を超えたモフモフの勲章ですよ、クラウ――って、ガシュゥゥゥ! ピキィィィンって言いましたよ!?」
クラウスが無表情のまま取り出したのは、R&Dが開発した『次元歪み・現実安定対応コロコロ』だった。
ガシュゥゥゥッ! ピキィィィン! という、もはや空間の裂け目を溶接しているような未知の駆動音を立てて、ロイドのスーツから見事に次元のバグ(テクスチャの乱れ)を吸着・補正していく。
「な、なんて手際だ……我々が何十人も迷い込み、永遠に出られなかったあの無限の迷宮を、たった一口のおやつと素手でのマッサージで大人しくさせてしまうなんて……!」
呆然とする声に振り返ると、ぐにゃりと曲がった天井の空間から、ボロボロになったマッパーや調査隊の魔導士たちが数十名、ポンッ、ポンッと吐き出されるように落ちてきた。
彼らは、地下市場の再開発調査に派遣され、無限ループに囚われていた『行方不明者たち』だった。
「おや。こんな空間のバグの中で、ずっと迷子になっていたのですか」
ロイドは次元コロコロをかけられながら、居住まいを正して彼らに向き直った。
「永遠に続く迷宮の中で、決して諦めずに出口を探し続けた。……その探索者としての誇り、高く評価いたします」
ロイドの言葉に、調査隊の面々はハッと息を呑み、そして大粒の涙を流した。
「今日から、あなた方を我が『ワケアリ不動産』の専属・巨大地下商業施設のテナント管理スタッフとして再雇用してあげましょう。初任給は金貨十枚です。もちろん、このウサギちゃんの『次元遊びのお相手係(四次元手当)』もつきますよ」
「き、金貨十枚!? 一生遊んで暮らせるような月給じゃないか!」
「一生ついていきます、社長!!」
こうして、魔獣の保護と優秀なスタッフの救出は完了した。
ロイドは、次元兎の極上の耳を撫でながら、未だにぐにゃぐにゃと歪んでいる地下空間を見渡す。
「クラウス。行方不明者たちの退避は完了しましたね?」
「はい、ロイド様。すでに全員を安全圏(地上)へ避難させております」
「では――我が一族のお家芸を披露しましょうか。上空の魔導艦に合図を。この無価値な『無限ループと空間のバグ』だけを綺麗に固定し、美しい『平坦な巨大商業スペース(更地)』にします」
ロイドが優雅に指を鳴らした、その直後。
帝都の遥か上空から、地下深層の特異点をピンポイントで貫く極大の『超広域・現実座標固定』の光が、不可知市場へと放たれた。




