63話 コア・ダンプ(Core Dump)
既に日は沈み、藍色の闇が世界を塗り潰し始めた頃。村の入り口を固める柵の前に、数騎の馬が半ば凍りついた泥雪を激しく跳ね上げながら急停止する。
降り続く雪をものともせず、馬上の男女は一糸乱れぬ動きで下馬する。その中から女性騎士が、濡れたケープを翻し、一歩前へと踏み出した。
「……ここか。司教閣下が仰っていた、件の幼子が身を寄せている村は」
凛とした声が村の静寂を切り裂く。だが、村人たちの反応は、彼女の予想とは大きく異なるものだった。
本来、王家直属の騎士が現れれば……特に王家の血を引く者が隠れ住む村であれば、平民は畏怖し、あるいは道を開けるものだ。しかし、今の村人たちの瞳にあるのは、騎士への敬意よりも、得体の知れない闖入者に対する剥き出しの困惑と苛立ちだった。
「……何用だ、騎士様。こんな辺境の、雪の降り積もる村にまで」
ガラムが鍛冶仕事で鍛え上げた重厚な声を響かせ、一歩前に出る。その後ろには、松明を掲げた若者や、一旦戻って来た樵達が、捜索の準備を中断させられた苛立ちを隠さずに控えていた。
女性騎士は、村人たちの異常な殺気にも似た気配に眉をひそめる。
「王家直属、近衛騎士団内廷捜査隊である。……この村に保護されている銀髪の幼子の安否を確認しに参った。通していただこう」
「安否……だと?」
ガラムの隣で、松明を握る手が震えた。
「ふざけるな! お前さんたちみたいなのが街で嗅ぎ回ったせいで、あの子は……!」
「待ちください、ガラムさん」
静かだが、鋼のような響きを持つ声が響いた。ヴィンセント神父が人だかりを割って現れる。彼は騎士の胸元の紋章を一瞥すると、深く、だが事務的な礼を尽くした。
「騎士殿、司教閣下からの使いであることは理解いたしました。ですが……あまりに時が悪い。現在、我々はそれどころではないのです」
「それどころではないとは、どういう意味か」
女性騎士の声に、微かな不穏が混じる。
「何があったのか説明できるものはおらぬのか?」
その問いに神父が答えようとした、その時。
「……クズノハ……。クズノハちゃんは、どこ……っ!?」
誰が彼女に騎士の来訪を告げたのか……あるいは鐘の音で起きたのか、ハルの家の方から、今にも倒れそうな足取りで一人の老婆が這い出してきた。ベルナデッタに支えられ、ようやく立っているハルだった。彼女の瞳は虚ろで、焦点が合っていない。だが、その視界に騎士の姿が入ると、よろめきながら近づいて騎士の前に膝をつくようにして崩れ落ちた。その手は、女性騎士の濡れたケープの裾を、泥にまみれるのも構わず掴んでいた。
「……あの子を。クズノハちゃんを、返しておくれっ……。お前さんたちが、迎えに来たんだろう? そうなんだろう? なら、どこへ連れて行ったんだい。どこへ……あの子は、まだ三つの子供なんだ。この雪の中じゃ、一晩だって……」
「……離せ、老婆。我らは今到着したばかりだ。連れ去るなど……」
騎士の声に、いつもの峻烈さはなかった。王都で数々の陰謀を暴いてきた彼女たちにとって、目の前で泣き崩れる老婆の家族を思う純粋な感情は、ただただ戸惑わされるものであった。
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降り積もる雪は、音を吸い込み、世界を無機質な純白へと塗り潰していく。
急造の巣穴の中、佐藤は己の失態を、凍りついた思考の端で反芻していた。鼻腔を突き抜ける、濃厚なバターと砂糖の甘い残り香。それはこの静寂な死の山において、あまりにも不自然で、あまりにも強烈な生存のシグナルだった。
【野生の直感】が脳内で警報を鳴らし続けている。入り口を塞ぐように、月光を背負った銀色の瞳がこちらを覗き込んでいた。狼の荒い呼気が、狭い穴の中に獣臭を撒き散らす。
――ガリ、ガリ、ガリ。
土を削り取る不快な音が、狭い穴の中に反響する。
佐藤は、凍える手足の震えを必死に抑えながら、奥の壁を掘り続けていた。
必死に奥の壁を掘り進めるが、子狐の細い爪は凍土に弾かれ、思うように進まない。
【穴掘り】スキルの補正。土の粘性抵抗。自身の筋力値。本来なら冷静に算出できるはずのパラメータが、背後から迫る獣の吐息によって、ノイズまみれのジャンクデータへと書き換えられていく。
(……なぜ、クッキーを食べた。……なぜ、このタイミングで)
脳内の論理回路が、エラーメッセージを吐き出し続けている。
隠密行動の鉄則は痕跡の抹消だ。野生の夜において、高濃度の脂質と糖分を含んだ匂いを放出するなど、初心者でも犯さない致命的なタクティカル・ミス。
だが、今の佐藤にはそのミスの理由が、嫌というほど理解できていた。
(……寒かったからだ。怖かったからだ。……あの神父の、バターの匂いがする安らぎに、縋りたかっただけだ)
その事実を認めた瞬間、彼が20年間かけて構築してきた孤高の狐という防衛の城壁が、音を立てて崩落し始めた。
壁を掘る爪が剥がれ、血が滲む。だが、狼の掘削速度は、子狐のそれを遥かに凌駕していた。
崩落した土の隙間から、ぎらりと光る飢えた瞳と、白く鋭い牙が見えた。
入り口を塞ぐことも、逃げ出すこともできない。
そこは、彼が自らの手で掘り進めた、完璧な、死のデッドロックだった。
(……ああ、そうだ。俺は、ずっと逃げていたんだ)
意識の底から、埃を被った古い記憶が浮上する。
冷徹な両親。厳格な父の足音。常に優秀であることを義務付けられた兄の背中。「結果を出せ」と強要し続ける社会。
どれほど高いスコアを叩き出しても、それは当然の義務として処理され、そこに愛という名の報酬は存在しなかった。
教室の喧騒、本音を隠した薄笑い、泥濘のような人間関係。
馴染めない自分。期待に応えられない自分。愛されない自分。
あの時、薄暗い自室で見た白銀の狐。
美しいと称賛したあの孤高の姿は、自分にとっての聖域などではなかった。
それは、誰にも愛されず、誰とも繋がれない自分の惨めさを正当化するための、都合の良い免罪符。馴染めない自分を、孤高という言葉でコーティングしただけだった。
(狐になりたかったんじゃない。独りで生きることは、寂しいことじゃない。高潔で、誰にも邪魔されない聖域なのだと……独りでも大丈夫だという、嘘の理由が欲しかっただけだったんだっ……!)
自分は、人間関係の泥濘を嫌っていたのではない。
その泥濘の中に、自分の居場所を見つけられなかっただけの、出来損ないの部品だった。
ハルが、自分を抱きしめた時の重み。
神父が、自分のために祈った時の声。
ガラムが、不器用に笑いかけた時の顔。
あれはノイズなどではなかった。
彼の38年間の人生の中で、現実世界で、一度も得られなかった、システムのバグですら到達できない正解そのものだった。
「…………っ!」
子狐の喉から、掠れた音が漏れる。
その瞬間。狼の強靭な顎が、土壁を突き破って子狐の喉元へ迫った。
暗転する視界。
最後に鼻腔を抜けたのは、冷たい雪の匂いでも、獣の腐臭でもなかった。
それは、ハルの家でいつも漂っていた、日向の匂いと――。
今、自らの愚かさで狼を呼び寄せた、あの甘いクッキーの、優しい残り香だった……。
コア・ダンプ(Core Dump)とは
プログラムが致命的なエラーで落ちた瞬間に、メモリの内容を丸ごとファイルに書き出したもの。




