62話 サンドボックス・エスケープ(Sandbox Escape)
林の中をどれほど歩いたのだろうか。物音がすると物陰に隠れて気配を殺し、外敵が居ないかを警戒しながら林の中を進む事は、じわじわと佐藤の精神に疲労を積み重ねていた。林の木々や地面はいつの間にか雪化粧を纏い、雪の白が視界のコントラストを奪い去ることで境界線を曖昧に塗り潰し始めている。音が奪い去られた静寂は、死を想起させる本格的な冬の訪れを告げていた。
佐藤は全身を大きくぷるぷると振り、毛に纏わりつく泥や水気を飛ばす。その慣れない動きに、小さな子狐としての身体はバランスを崩してふらついた。
一度地面に座って周囲を見渡し、獲物や外敵が居ないか索敵を行う。そこで視界の隅に、体長が自身と同じぐらいである30センチほどの羽虫を発見した。
(羽虫か、動きが鈍い……。どうやら前に見た時よりも寒さで弱っているようだな。今なら仕留められるか……)
【隠密】で気配を殺しながらゆっくりと近づき、最適解の角度から【不意打ち】を狙う。だが、射程圏内に入り【噛みつき】を行おうとしたところで【野生の直感】が発動する。
(……っ!? 不味い!!)
直感で感じた事。それは、絶望的なものだった。
自分では絶対に勝てない。攻撃が通らない。攻撃すると殺される……。本来は捕食者である筈の狐が、以前にベルナデッタが石を投げつけていただけで容易く仕留めていた羽虫……それも、弱って動きが鈍くなっている個体を相手に感じる、絶対的な力の差。
佐藤は気配を殺しながらゆっくりと後退りをし、ある程度離れたところで走って逃げ出した。
やがて走り疲れて木の根元で座り込んで一息つくと、再び【野生の直感】が発動する。急いでその場から離れると、先ほどまで近くにあった静止していたはずの巨木が蠢き、こちらを捕食対象として認識したかのように枝を伸ばしてきた。
(木が動くだと!? 今までそんな事は……いや、今まで林に来る際は、必ず誰かが傍にいた……。まさか、知らないうちに守られていた……のか……?)
今までは、常に誰かは彼が脅威に近づかぬように……そして、向こうから近づくものについても遠ざけるようにし続けていた。その守護という名のフィルタリングが消えた瞬間、世界は本来の牙を剥いたのだ。
疲れた身体にムチを打ち、再び少し走ることで何とか逃げ遂せた。
全ての木が魔物だというわけではない。だが、佐藤の目には周囲の全ての木々が敵であるかのように見えていた。
(クソッ……此処はダメだ! 木が無い場所まで早く向かわないと!)
こうして、白銀の光を纏う幼い子狐の影は、更に山の中を迷走し、何処かへと消えていく……。
その影が消えた数キロ先では、枝を蹴る鋭い音が響いていた。
______________________________________________
ジョバンニは山の木々の枝を飛び移りながら、周囲を見渡していた。魔物ならば時折見つかるが、肝心な白銀の毛色については未だに見つからない。
焦る気持ちを抑えつつ、ジョバンニは進行方向に、自身の倍はあろうかという巨躯のヒグマを捉えた。手前の枝を音を出すことなく踏み込み、身体を上下反転させる。そして、弓を地面に向かい引き絞り、瞬時に発射。放たれた膨大な魔力を宿す一矢は蒼白い光を纏い、上方よりヒグマの首の付け根を穿った。
更に数瞬後、魔力で作られた蒼白い四つの小さな矢が傷口目掛けて追撃する。
彼が身体を更に反転させて次の枝に足を付けた頃。自身の命を狙う存在にすら気づいていなかったヒグマは、何が起きたのかを理解する間もなく絶命し、その身体を霧散させていた。
ジョバンニはヒグマの死を確認することさえせず、既に次の枝を見据え、再び宙を舞っていた。着地とほぼ同時に、視界の隅……霧の向こうに霞んで見える狼の影に、蒼白く光る投げナイフを投げつける。ナイフは着弾の瞬間、小さな爆発を起こし、対象と共に霧散した。
(……探す範囲が広すぎる。一体何処まで行きやがったんだ? あの小娘は……。二度と無茶をするなと言ったというのに……。まったく、見つけたらたっぷり説教してやらないとな)
後続の事や、もしも追い抜いていた時のことも考えて、危険を排除しながら進むジョバンニ。だが、移動をした痕跡すら見つからずに、ただただ魔物を間引きしていくだけであった。
(ちっ、こっちに気付かれた……。狼を一頭逃がしてしまったか……。まあ、一頭だけなら後続の樵の連中でも余裕で対応するだろう。それにしても、そろそろ日が暮れ始める頃だな。あいつ、気配を隠す術はなかなかのものだったが……俺をここまで働かせたんだ。ちゃんと無事でいろよ)
______________________________________________
佐藤は逃げ出した先で、山の斜面が崩れて段差となっている場所を発見していた。そこで寝床を確保するためにも、日が暮れる前に巣穴を掘り終えるべく子狐は壁面を掘っていた。
だが、【穴掘り】スキルの補正はあれど、小さく非力な身体では畑の土を掘るように容易くは進まず、時間がかかる作業となっていた。
日が暮れた頃。身体の全てが入り、何とか寛げるほどのスペースが確保され、ようやく佐藤は一息つく事が出来た。
子狐はインベントリから神父の手作りクッキーを取り出して、器用に前足で袋を固定させて鼻を突っ込み、サクサクと咀嚼する。すると、視界の隅で赤く点滅していた空腹の警告が消失した。
(今回のものは、ラズベリーのジャムか……。いつもながら、ずいぶんとバターを使っているな……安いものでも無いだろうに……)
疲れた身体に甘酸っぱいクッキーの味が染み渡る。少し気持ちを落ち着けた佐藤はクッキーの袋を収納し、地面に丸くなった。
(村はどうなっただろうか……。ハルお婆さんは……いや、考えても仕方ないか……。今更、戻れるものでも無いだろうし……な)
考えるをやめて寝ようとした頃。【野生の直感】が激しい警告を鳴らした。
クッキーの匂いを嗅ぎ付けた狼が、月灯りの下でこちらを見つめていた。
サンドボックス・エスケープ(Sandbox Escape)とは
安全な隔離環境(砂場)の壁を突き破って、外のシステムへ侵入すること。




