ぎこちない歩み寄り③
あの日から、特に何かも変わってない。父上は相変わらず政務に追われていたし、毎日のように顔を合わせる機会自体は、これまでとそう変わらなかった。
変わったのは、多分、俺の方だった。
「父上、今日の稽古で新しい型を教わりました」
「そうか。励め」
いつもと同じ、素っ気ない返事。前までなら、そこで会話を切り上げていた。何を話しても、この一言で終わるんだと、最初から諦めていたから。
でも、今の俺は、もう少しだけ食い下がってみることにした。
「思ったより難しくて、コンラートにも笑われました」
「……そうか」
父上は、一瞬だけ、書類から視線を上げた。すぐにまた手元に戻ってしまったけれど、確かに顔を上げた。それだけでも、今までにない反応だった。
それから、俺は意識して、短い会話でも続けるようにした。「励め」で終わりそうになったらもう一言、付け加える。素っ気なくあしらわれても、めげずに続ける。
最初のうちは、大した反応もなかった。相槌がひとつ増える程度で、それ以上のことはなかなか返ってこない。それでも、根気強く続けていると、少しずつ変化が見え始めた。
ある朝、すれ違いざまに、珍しく父上の方から声をかけられたことがあった。
「稽古はどうだ」
そんな、たった一言だとしても。前までなら「励め」で終わっていたところに、質問の形がつくようになった。それだけのことが、嬉しかった。
ある日は、すれ違いざまに「今日は冷える。上着を持ったか」とだけ聞かれたこともあった。俺が持っていないと答えると、父上はわずかに眉をひそめて、近侍に何か指示を出していた。翌日から、朝の支度の際に、リヒトが必ず上着を確認するようになったのは、多分そのせいだ。
直接的な言葉で気にかけてくれるわけじゃない。それでも、行動の端々に、以前とは違う何かを感じるようになっていた。
食事の献立にも、時折変化があった。ある晩、俺の好物である白身魚の料理が、いつもより丁寧な仕立てで出てきたことがある。厨房長に尋ねると、「陛下から、殿下の好物を確認するようにとのご指示がありました」と、事もなげに返された。
直接聞かれたわけでもないのに、いつの間にか把握されている。相変わらず伝え方は不器用だった。それでも、こういう小さな気遣いの積み重ねが、以前とは違う何かを物語っている気がした。
変化があったのは、稽古の帰りだった。
「殿下、陛下がお呼びです」
文官に呼び止められて、執務室に向かうと、そこには珍しく、書類の量がいつもより少ない机があった。
「今日は、早く終わったんですか」
「……多少は」
歯切れの悪い返事だった。よく見ると、机の端に、見覚えのある水晶が置かれている。目立たない場所にあるけれど、確かに、以前見た時よりも近くに寄せられているように思えた。
「エル」
父上が、珍しく自分から切り出した。何か言いにくいことでもあるのか、一度言葉を切ってから、また続けた。
「今度の誕生の宴だが」
その言葉に俺は思わず身構えた。誕生の宴と聞いて、真っ先に思い出すのは、あの小さなころの記憶だ。豪華な広間、形式的な祝辞、そして二人きりになった瞬間の、あの温度のない言葉。
身体が、無意識に強張るのが分かった。
「宴の後、少し時間を取ろうと思う」
「……は?」
予想していた言葉と、あまりに違っていて、間の抜けた声が出た。
「毎年、宴が終わればそれで終わりだった。今年はその後に、少しだけ」
父上は、言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「お前の好きなものでも、聞いておこうと思ってな」
柄にもなく、ぎこちない申し出だった。今更、という気持ちがなかったわけじゃない。何年も前から、こういう言葉が欲しかった。今頃になって、それが返ってくることに、複雑な感情がなかったと言えば嘘になる。
どうして今なんだ、とも思う。もっと早く、こうしてくれたら良かったのに、とも。
それでも。
「……別に、期待はしてない」
つい、そんな言い方をしてしまった。昔からの癖だ。素直に喜べば良かったのに、皮肉っぽい言葉が先に出てくる。
父上は少し傷ついたような顔をした。でも、すぐに表情を戻して静かに言った。
「そうか。それでも、機会は作る」
突き放されても、それでも引き下がらない。その一言に、俺はなんとなく気まずくなった。せっかく歩み寄ろうとしてくれているのに、素っ気なく返してしまった自分が少し嫌になる。
昔の俺なら、そのままにしていた。意地を張ったまま、素直になれずに終わっていたと思う。
でも、今は違う。
「……いや」
言い直すことにした。
「悪い、今の言い方はなかった。時間、作ってくれるなら、素直に嬉しい」
自分でも驚くくらい、素直な言葉が出た。
父上は、意外そうに目を見開いたあと、微かに――本当に微かにだけど、口の端を緩めた。
「そうか」
それだけだった。でも、その短い返事に、確かな何かが宿っている気がした。
「当日は、何か希望はあるか」
「……特には。強いて言うなら」
少し考えて、俺は続けた。
「豪華な料理より、あの水晶を見ながら話す時間の方が、多分嬉しい」
父上は、一瞬だけ驚いた顔をして、それから小さく頷いた。
「……考えておこう」
執務室を出た後、廊下で待っていたコンラートに、思わず今のやり取りを話した。
「今度の誕生日、父上と少し話す時間を作ることになった」
「それは、良いことですね」
「まだ、ぎこちないけどな。今日だって、つい嫌味っぽいこと言っちまったし」
「一朝一夕には、変わらないものです。それでも、変わろうとしていることに意味があるかと」
コンラートの言葉に、俺は小さく頷いた。
「お前は、なんでそう物分かりがいいんだよ」
「殿下と陛下、どちらのお気持ちも、この城で見てきましたので」
「見てきた、って。お前、そんな年でもないだろ」
「殿下が思っているより、私はこの城のことをよく見ております」
澄ました顔で言われて、俺は思わず噴き出した。真面目くさった顔で言うから、余計におかしい。
長年積み重なった距離が、これだけで消えるとも思わない。それでも、これは確かに、前とは違う一歩だった。
誕生の宴が、少しだけ楽しみになっている自分に気づいて、俺は妙にくすぐったい気分になった。
今までは、あの宴という行事そのものが、少し苦手だった。豪華な料理も、祝いの言葉も、全部どこか他人事のように感じていた。でも今年は、少しだけ違う気がする。
宴が終わった後の時間が、今から待ち遠しかった。




