積み重ねる日常
それから特別なことは起きなかった。
起きなかった、というより、小さなことが積み重なっていった、という方が正しいのかもしれない。
最初のうちは、あくまで「暴君にならないため」の心がけのつもりだった。誰かを蔑ろにしない。誰かの厚意を無下にしない。そうやって、ひとつひとつ、自分を律するように過ごしていた。
ある朝、稽古の前にコンラートが早く演習場に来ていることに、今更ながら気づいた。俺が来る前から、一人で素振りをしている。
「早いな」
「殿下より早く来て、体を温めておくのも仕事のうちですので」
当たり前のようにそう言われて、ふと思った。こいつはいつもこうやって、俺の見えないところでも真面目にやっているんだろうな、と。今まで、あまり気にも留めていなかったことだった。
「毎日、何時に来てるんだ?」
「日によりますが、殿下がお目覚めになる一刻ほど前には」
「早すぎるだろ」
「慣れております」
こともなげに言われて、調子が狂った。当たり前だと思っていたコンラートの働きが、当たり前じゃないことに、今更ながら気づかされる。
試しに、次の日は俺も早起きして、コンラートより先に演習場へ向かってみることにした。まだ空が薄暗いうちに支度を済ませ、眠い目を擦りながら外に出る。
「殿下? このような時間に、どうされました」
案の定、驚いた顔のコンラートが、少し遅れて姿を見せた。
「別に。たまには早起きしてみただけだ」
「……そうですか」
訝しむような視線を向けられたけど、それ以上は追及されなかった。結局、その日一日は眠気と戦う羽目になったものの、いつもコンラートがどんな時間から働き始めているのか、身をもって知ることができた気がする。次の日からは、大人しく普段通りの時間に起きることにしたけど。
別の日には、こんなこともあった。
書庫で調べ物をしていた俺の後ろで、コンラートが小さく欠伸を噛み殺しているのに気づいた。よく見ると、目の下にうっすらと隈がある。
「……お前、寝てないのか」
「いえ、通常通り休んでおります」
「嘘つけ、その顔で」
珍しく言い淀んだところを見ると、図星だったらしい。問い詰めると、昨夜は警備体制の見直しで、遅くまで会議に出ていたことが分かった。
「殿下の護衛には支障をきたしません」
「支障とかそういう話じゃなくて。休めよ、ちゃんと」
「殿下に心配していただけるとは、光栄です」
「茶化すなよ」
そう言いながらも、俺は近くにあった長椅子を指差した。
「少しだけ座ってろ。書庫にいる間くらいは、俺が周り見ておくから」
「殿下がそのようなことを仰るとは」
「うるさい。いいから座れ」
しぶしぶといった様子で、コンラートは長椅子に腰を下ろした。ものの数分で、規則正しい寝息が聞こえてきた時には、少し笑ってしまった。こいつにも、こういう無防備な顔があるんだな、と。
書庫の窓から差し込む光の中で、コンラートの寝顔を横目に、俺は調べ物を続けた。不思議と、静かで悪くない時間だった。
夕方、目を覚ましたコンラートは、飛び起きるようにして頭を下げてきた。
「殿下、申し訳ございません、居眠りなど――」
「別にいい。少しは休めたか」
「……はい。おかげさまで」
バツが悪そうな顔をしているコンラートを見て、俺はなんだか愉快な気分になった。いつも隙のないこの男の、こういう瞬間を見られるのは、悪くない。
また別の日には、視察という名目で、久しぶりに城下へ出る機会があった。今回は供の数も少なく、コンラートと二人きりに近い外出だった。
市場を歩いていると、串焼きの屋台から香ばしい匂いが漂ってきた。思わず足を止めた俺に、コンラートが小さく尋ねてくる。
「お気になりますか」
「別に。ただの興味だ」
強がってそう言ったものの、視線はしっかり屋台の方に向いていた。前世は庶民だったのだ、どんなものか気になる。それに気づいたのか、コンラートは何も言わずに屋台に近づいて、串焼きを二本買ってきた。
「殿下、毒見はいたしましたので」
「頼んでない」
「差し出がましいことをいたしました。要らなければ、私が」
「……いや、食う」
結局、二人並んで屋台の脇で串焼きを頬張ることになった。城の食事とはまるで違う、庶民的な味付けだったけど、これはこれで悪くなかった。前世庶民とはいえ、今世の城の食事に慣れきってしまったんだなとも思った。
「たまに、こういうのもいいな」
「殿下がそう仰るとは、意外です」
「うるさい。お前が買ってきたんだろうが」
「殿下がご覧になっていたので」
「見てないって言っただろ」
言い合いながらも、隣を歩くコンラートの表情は、いつもより柔らかかった気がする。
夜の見回りに付き合った日もあった。城壁の上を歩きながら、コンラートが淡々と持ち場の説明をしてくれる。
「あちらに見えるのが、東の見張り台です。夜間は交代で常に人が立っています」
「毎晩、こんなふうに見回ってるのか」
「殿下の護衛と並行して、はい」
「大変だな」
「慣れております」
さっきと同じ台詞だ。何にでも「慣れております」で片付けてしまうところが、コンラートらしいといえばらしい。
星が出ていた。竜人国の夜空は、他所よりも星が近く見えると聞いたことがある。本当かどうかは知らないけど、今夜は随分と綺麗に見えた。
「……たまには、こういうのも悪くないな」
「見回りが、ですか?」
「いや、こういう何でもない夜が」
コンラートは少し不思議そうな顔をしたあと、小さく頷いた。
「同感です」
「お前でも、そういうこと思うんだな」
「私も、感情のない人形ではありませんので」
珍しく軽口めいたことを言われて、俺は思わず噴き出した。
「なんだよ、それ」
「殿下が驚かれるので、つい」
こんな軽口を叩き合うようになったのも、思えば最近のことだ。前までは、俺が一方的に絡んでいくばかりで、コンラートの方から冗談めいたことを口にするのは珍しかった。
それだけの、他愛もない会話だった。それでも、こういう小さな積み重ねが、俺たちの間にある何かを変えていっている気がした。
毎朝の早起きも、書庫での居眠りも、市場の串焼きも、夜の見回りも。ひとつひとつは、取るに足らない出来事だ。物語のどこにも記録されないような、ただの日常の欠片。
ふと気づくと、こうした日々を、もう「暴君にならないため」という理由だけで大事にしているわけじゃなくなっていた。いつの間にか、そんな打算めいた動機は、頭の隅に追いやられている。
早起きしてまで様子を見に行きたくなるのも、串焼きを分け合って笑い合うのも、星を見上げながら他愛もない話をするのも――ただ、そうしたいから、そうしているだけだった。
特別な出来事なんて、何もない。ただの日常だ。
でも、その日常を、俺はいつの間にか、心の底から大事に思うようになっていた。




