変化の兆し②
「殿下、少しよろしいですか」
朝の稽古の後、コンラートに改まった調子で呼び止められた。珍しく、真剣な顔をしている。
正直、来るべきものが来た、という感覚があった。ここ数日、パンとスープだけの食事を続けていたせいで、身体が思うように動かなくなっていた自覚はあった。今日の稽古でも、木剣を構えた途端に軽い目眩を覚えて、危うくよろけそうになったところだ。
近侍のリヒトも、朝食の膳を下げる時に何か言いたそうな顔でこちらを窺っていた。給仕係も厨房の人間も、ここ数日は皆、似たような顔でこちらを見てくる。
「なんだよ、改まって」
「ここ最近、食事の量が極端に減っておられます。給仕係も厨房も、皆心配しております」
図星を突かれて、一瞬言葉に詰まった。
「別に、体調が悪いわけじゃない」
「存じております。ですが、稽古中の動きにも、以前より精彩を欠いておられるように見受けられます。剣を振る力が、単純に落ちている」
淡々と、でもはっきりと指摘されて、返す言葉がなかった。実際、ここ数日、剣を振ってもすぐに息が上がるようになっていた。パンとスープだけの食事を続けていれば、当然といえば当然だ。
「殿下がご自身の意思で節制されているのなら、私がとやかく言うことではありません。しかし、それで身体を壊されては本末転倒です」
コンラートの声には、いつもの淡々とした調子の中に、微かな心配の色が滲んでいた。それに気づいて、少し驚いた。こいつがこんなふうに踏み込んだ物言いをすることは、あまりない。
「先ほどの稽古でも、足元がおぼつかない様子でした。気づいておられましたか」
「……分かってた。ちょっと立ちくらみがしただけだ」
「立ちくらみで済めば、まだいいのですが」
コンラートは、少し声を落として続けた。
「リヒトからも聞きました。ここ数日、朝食をほとんど残されていると。厨房長も、殿下のお口に合わなかったのではと、随分気にしておりました」
そこまで話が広がっていたとは思わなかった。俺一人の問題のつもりが、いつの間にか、周りを巻き込んでしまっていたらしい。
「……別に、深い理由はない」
嘘だ。暴君にならないため、と言えれば楽だろう。ただ、それを説明する気にはなれなかった。
「贅沢を、慎みたいだけだ」
それは、本当のことを言った。
コンラートは少し考えるような間を置いてから、静かに言った。
「贅沢を慎むことと、必要な栄養まで削ることは、別の話だと思います」
その一言が胸に残った。
いわれてみれば、その通りだ。俺がやりたかったのは、我儘放題に贅を尽くす暴君にならないことであって、自分を痛めつけることじゃない。極端から極端へ振れていただけで、結局はどちらも「暴君にならないため」という目的からは、ずれてしまっていたのかもしれない。
その足で、俺は珍しく自分から厨房へ行った。王族が直接顔を出すことなど滅多にないからか、厨房長は俺の姿を見るなり、驚いた様子で姿勢を正した。
「殿下、このような場所まで、何か御用でしょうか」
「いや、その……今までのことで、良くなかったと思って」
柄にもなく、しどろもどろになった。周りの料理人たちも、手を止めてこちらを窺っている。居心地の悪さを感じながらも、俺は続けた。
「品数を絞りたいと思ってる。栄養があって、食べきれる量にしてほしいんだ」
厨房長は一瞬きょとんとした顔をしたあと、ほっとしたように表情を緩めた。
「殿下がそう仰ってくださって、安心いたしました。皆、心配しておりましたので」
その言葉に、なんとなく気恥ずかしくなって、俺はそそくさと厨房を後にした。背中に、料理人たちの、どこか温かい視線を感じた気がした。
その日の夕食に出てきた料理は、以前ほど品数は多くなかったけど、彩りも量もちょうどよく、無理なく食べきれるものだった。白身の魚と、根菜のスープ、そしてパン。それだけなのに、不思議と満足感があった。
「……これくらいで、ちょうどいいもんだな」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
膳を下げに来たリヒトが、空になった皿を見て、ほっとしたような顔をした。
「殿下、今日はしっかり召し上がっていただけて、安心いたしました」
その笑顔を見た瞬間、また警報が鳴りそうになる。喜ばせすぎるのも良くない気がして、俺は反射的に素っ気ない相槌を返しそうになった。
でも、思い直した。
リヒトは、ただ自分の仕事を、真面目にこなしているだけだ。喜んでいるのも、単純に主の体調を気にかけているからだろう。それを邪推して突き放すのは、この間庭師にしたことと同じ失敗を繰り返すだけだ。
「……ああ。世話をかけた」
「とんでもございません。それが私の仕事ですから」
リヒトは嬉しそうに一礼して、膳を持って下がっていった。
特別扱いをするつもりも、必要以上に距離を詰めるつもりもない。ただ、真面目に働いてくれている相手には、それに見合った礼儀を返す。それだけのことだ。暴君になる一歩は、多分、そういう当たり前の線引きを忘れたところから始まるんだろう。近づきすぎず、突き放しすぎず。そのくらいの距離感を、これからは意識していこうと思った。
後日、稽古の成果を見ていたコンラートが、ふと口を開いた。
「今日は、動きが違いますね」
「そうか?」
「はい。以前のように力が入っています」
「まあ、ちゃんと食べたからな」
「それは何よりです」
コンラートは、ほんの少しだけ、口の端を緩めた気がした。見間違いだったかもしれない。でも、その表情に、俺は妙に安心した。
夕食の席では、リヒトが心なしか嬉しそうな顔で膳を下げていった。厨房長からも、わざわざ礼を言われた。俺一人が意地を張っていただけで、周りにこんなに心配をかけていたのかと、今更ながらに気づかされる。
極端に振れていた反動が、少しずつ収まっていく。暴君にならないための道は、我慢比べじゃない。もっと単純な、当たり前のところにあるのかもしれなかった。
誰かに心配をかけてまで、自分を追い詰める必要はない。豪華すぎる食事も、質素すぎる食事も、結局は同じように周りを振り回すだけだ。ちょうどいい場所を探ることの方が、よっぽど難しくてよっぽど大事なのかもしれない。
そんな、当たり前のことに気づくまでに、随分と遠回りをしてしまった気がする。
少しずつでいい。そう思えるくらいには、肩の力が抜けてきていた。
その夜、寝室に向かう前、廊下でコンラートに見送られる時になって、俺は珍しく足を止めた。
「殿下?」
「……食事のことだけど」
言い出してから、続きの言葉に詰まった。柄にもないことをしようとしている。それでも、言わないままにしておくのは違うと思った。
「指摘してくれて助かった。あのまま意地を張ってたら、そのうち本当に倒れてたと思う」
自分でも驚くくらい、素直な言葉が出た。
コンラートは、一瞬だけ目を見開いたあと、いつもの表情に戻って一礼した。
「殿下のお身体を案じるのは、私の役目ですから」
「役目、で片付けるなよ。せっかく素直に礼を言ったのに」
「……失礼しました。では、こう言い直します。殿下のお役に立てたのなら、光栄です」
やっぱり真面目すぎる男だ。それでも、その生真面目さに俺は救われている気がした。
「おやすみなさい、殿下」
「……ああ、おやすみ」
部屋の扉を閉める直前、廊下に立つコンラートの姿がちらりと見えた。
なんとなく、今日は少しだけ、いい一日だったような気がした。




