転生の自覚③
暗闇の中で、俺はしばらく動けなかった。
心臓が、耳の奥で鳴っているみたいにうるさい。何が起きたのか、自分でもよく分からなかった。ただ、頭の中に知らないはずの光景が、次から次へと押し寄せてくる。
最初に浮かんだのは、光る箱の映像だった。四角い画面。指先で触れると反応する、硬くて冷たい板。あれはなんだったか。
(――スマホ、だ)
言葉が先に出てきた。意味は後からついてきた。
俺は、その画面越しに、何かの物語を追っていた記憶がある。文字が流れて、絵が浮かんで、選択肢が表示されて。男の子の声が、画面の向こうから聞こえてくる。
それは、ゲームだった。
俺は、確かにこの手で、その物語を進めていた。
息を吸うのも忘れて、俺は暗い天井を見上げていた。頭の中では、途切れ途切れの記憶が、まるで壊れた鏡の破片みたいに散らばっている。
それでも、確かなことがひとつだけあった。
あの画面の向こうにあった世界と、この世界は同じだ。
馬鹿げてる、と自分でも思う。そんなはずがない。でも、そう思う端から、記憶の断片が答え合わせをしてくる。竜人の国。男しか生まれないこの世界。深い緋色の薔薇。どれもあの物語の中で見た、覚えのあるものだった。
俺は、前世とやらを生きていたらしい。どこか遠い、この世界とは違う場所で。そこで、この世界を舞台にした物語を、画面越しに追いかけていた。
断片的に浮かぶ光景は、どれもぼんやりとしている。狭い部屋。柔らかい布団。窓の外を走る、箱のような乗り物の音。姉に「これやってみて」と勧められたような、そんな記憶さえある気がした。確かだかどうかは、思い出せない。
(でもBLゲームだから、自分でやるはずないよな……)
どこまで信じていいのか分からなかった。頭がおかしくなったんじゃないか、とも思う。夢と現実の境目が曖昧になっているだけなんじゃないか、とも。でも、それにしては、あまりにも記憶の輪郭がはっきりしすぎている。竜人という種族の名前も、この城の間取りも、どこかで「知っていた」という感覚が拭えない。
――待てよ。
ふと、ある名前が頭をよぎった瞬間、心臓が跳ねた。
コンラート。
あの物語の中に、確かにその名前があった気がする。顔立ちも、声も、聞いた覚えがある。ただ、選択肢を選ぶ場面で、その名前を選んだ記憶が、頭の隅にちらついている。物語の中心にいた人物の一人、そんな印象だけが残っている。確か物語の第1章で竜人国を進める時にいたはずだ。
俺の護衛をしているあの男が、あの物語に出てくるコンラートと、同一人物なんだろうか。
考えれば考えるほど、胸の奥がざわついた。もしそうなら、俺は今、物語の中を生きていることになる。それも、当事者として。
じゃあ、俺自身は――あの物語の中で、何だったんだろう。
思い出そうとするほど、嫌な記憶ばかりが繋がっていく。
竜人国。玉座。好き放題に振る舞う王。
あれは――そう、俺だ。
この国の王座に座って、我儘放題に暴れまわる暴君。気に入った顔の良い男を次々とはべらせて、贅の限りを尽くす。国のことなんて二の次で、ただ己の欲望のままに生きる、そういう役どころ。
そして、その暴君は、最後にはゲームの主人公とコンラートの手によって、討たれる。
物語のクライマックスで倒されるべき、悪役。それが、俺の役割だったらしい。
背筋が冷たくなった。
なんだよ、それ。
俺は今、その暴君になるはずの道を、まさに歩いている真っ最中だということになる。ちょっとひねくれてるだけじゃないかとも思うが、それが暴君の原因になるんだろうか。この先、そうなっていくのだとしたら、最後にはコンラートに手にかけられる運命だということだ。
そんな未来、冗談じゃない。
どういうストーリーで倒されるのか、さすがにそこまでは思い出せない。ただ、断片的な記憶の中で、その結末だけは妙にはっきりとしていた。まるで、そこだけ強く印象に焼き付いているみたいに。
まあ、知ってしまった以上、黙って突き進むわけにはいかない。
このまま何もしなければ、いずれ本当に、そういう王になってしまうかもしれない。国を私物化して、我儘放題に振る舞って、最後にはコンラートに討たれる未来を、俺は望んでいない。
だったら、今から気をつければいい。そういう王になんて、絶対にならなければいいだけの話だ。
そんなふうに、無理やり自分を納得させようとしている自覚もあった。
それでも頭の隅から離れないものがある。コンラートのことだ。
あいつは、俺を討つ側の人間だったらしい。物語の中では、主人公と共に、暴君と化した俺に刃を向ける役割を持っていたということになる。
なのに、あいつは護衛として律儀に俺を守っている。何も知らずに。
妙な感覚だった。目の前にいる、いつも通り生真面目なあの男を、まるで別の角度から見てしまっているような。今まで当たり前に隣にいた存在が急に危ういものに思えてくる、というより、勝手に未来を知ってしまったことへの、後ろめたさに近いものを感じている自分がいた。
あいつは、何も知らない。俺だけが、一方的に「知っている」立場になってしまった。それも、随分と剣呑な未来を。
少なくとも、これからは注意深くいようと思った。断片的な記憶がどこまで正しいのか、まだ分からない。うっかり口を滑らせて、知らないはずのことを口にしてしまえば、周りを混乱させるだけだ。誰かに気味悪がられるのも、御免だった。
今まで通りに振る舞いながら、少しずつ、記憶と現実をすり合わせていく。それが、今の俺にできる、唯一まともなやり方だという気がした。
窓の外が、薄っすらと明るくなり始めていた。いつの間にか夜が明けようとしている。
俺は、寝台の上でゆっくりと身を起こした。頭の中はまだ整理しきれていない。でも、ひとつだけはっきりしたことがある。
俺は、この世界に転生したんだ。ゲームの中の――いずれ、コンラートに討たれるはずの暴君として。
誰にも、このことを言うつもりはなかった。言ったところで、誰が信じるというんだ。それに、こんな話をしたところで、何かが変わるわけでもない。
ただ、これからは少しだけ違う目で、この世界を見ることになるんだろう。
(前世を思い出しても、俺は、俺だから――)
部屋の扉の外から、控えめなノックの音がした。
「殿下、そろそろお目覚めのお時間かと」
コンラートの声だ。
いつも通りの、変わらない声。でも今の俺には、その声が少しだけ違って聞こえた。
「……ああ」
短く答えて、寝台を下りた。




