コンラート
殿下の護衛を拝命したのは、まだ俺自身、騎士としての経験も浅い頃だった。
初めて対面した時のことは、今でもよく覚えている。まだ幼さの残る顔立ちに、年齢に見合わない皮肉げな目つき。「本日より、殿下の護衛を務めさせていただきます」と名乗った俺に、殿下は興味なさそうに「へえ。よろしく」とだけ返した。
その距離感のある態度は、それからしばらく変わらなかった。
わざと予定にない場所へ足を向けたり、返事もせずに歩き出したり。俺を試すような真似を、殿下は繰り返した。今にして思えば、あれは殿下なりの、周囲との距離の測り方だったのだろう。誰にどこまで踏み込んでいいのか、幼いながらに探っていたのかもしれない。
「オマエ、こんな役目押しつけられて可哀想だな」
そう言われた時も、俺はただ「光栄に思っております」と返しただけだった。それ以上の感情を、あの頃の俺は特に抱いていなかったように思う。ただ、任務を全うする。それだけのつもりだった。
夜中に意味もなく庭に出たいと言い出したり、稽古をわざとさぼろうとしたり。理不尽な我儘には頷かず、「それはできかねます」とだけ繰り返す俺に、殿下は苛立った顔を見せることもあった。それでも、次第に、そうした我儘の頻度は減っていった。試すという行為自体に、殿下自身が飽きたのかもしれない。あるいは、俺の反応が変わらないことに、何かを見出したのかもしれない。当時の俺には、その理由までは分からなかった。
殿下の中に垣間見える寂しさに、俺が初めて気づいたのは、貴族の子弟たちに絡まれていたあの日のことだ。何を言われても黙って受け流そうとする殿下の背中に、俺は思わず口を挟んでいた。
「殿下の器を測れるほどの立場に、あなた方はまだいらっしゃらないかと」
あの時、殿下が浮かべた驚いたような表情を、今でも覚えている。誰かに真っ直ぐ肩を持たれることに、慣れていない顔だった。
それでも、その日を境に変わったわけじゃない。相変わらず皮肉屋で、素直になれない態度は、その後もしばらく続いた。軽口も、突き放すような色合いを含んだままだったし、陛下との間にある距離も、変わらず冷えたままだった。あの日感じた小さな驚きも、殿下の中では、大した意味を持たなかったのかもしれない。少なくとも、当時の俺にはそう見えていた。
変化が訪れたのは、それからしばらく経った、ある時期のことだった。何がきっかけだったのか、俺には分からない。ただ、ある朝を境に、殿下の目つきから、あの刺々しさが少しずつ抜けていったのを覚えている。食事の量が急に減って、慌てて指摘したこともあった。近侍のリヒト殿に対しても、最初は妙に距離を置いていたのに、いつしか自然な態度で接するようになっていた。
父君であらせられる陛下との間にも、ぎこちないながら、確かな歩み寄りが生まれていた。星を映す水晶を贈られた陛下が、珍しく穏やかな表情を浮かべておられたと、後になって耳にした時は、俺自身、驚きを隠せなかった。
書庫で居眠りをした俺を咎めるどころか、隣で見張っていてくれたこともあった。目を覚ました時の、殿下のどこか得意げな顔が忘れられない。市場で串焼きを分け合ったことも、夜の見回りで他愛もない話をしたことも。どれも、些細な出来事だ。それでも、そのひとつひとつが、俺の中に、確かな何かを積み重ねていった。
いつからだろう。殿下のそうした変化のひとつひとつに、俺自身の心が、静かに動かされるようになっていったのは。
最初は、主に対する忠誠心だと思っていた。仕えるべき方が健やかであることを、素直に喜んでいるだけだと。
だが、あの日――神殿からの帰り道、飾り櫓が崩れ落ちてきたあの瞬間、俺は自分の中にある感情が、単なる忠誠心などという言葉では収まりきらないものだと、否応なく思い知らされた。
殿下の身に何かあれば。そう考えた瞬間、頭の中が真っ白になった。任務としての焦りではない。もっと個人的な、剥き出しの恐怖だった。
殿下を庇って地面に伏せたあの一瞬、俺の胸にあったのは、忠義でも義務でもなかった。ただ、この方を失いたくない。それだけだった。
城に戻り、一人になった時、俺は自分の感情の正体に、ようやく向き合わざるを得なかった。
これは、忠誠心の範疇を超えている。
俺は殿下のことを、一人の主として以上に大切に思っている。
その自覚は静かに、しかし確かに俺の中に根を下ろした。
翌日、詰所に顔を出すとレオが開口一番声をかけてきた。
「聞いたぞ、神殿での一件。お前、殿下を庇って怪我したんだって? 災難だったな」
「大したことはない」
「その割に、なんか顔つき変わってねえか」
レオは、訓練用の槍を肩に担ぎながら、俺の顔をまじまじと覗き込んできた。同期の中でも、こいつだけは昔から、妙に人の機微に敏い。
「気のせいだろう」
「そうか? いつもより気ぃ抜けてるっつうか、逆に締まってるっつうか……まあいいや。とにかく無事で何よりだ」
深くは追及せず、レオはあっさりと話を切り上げた。それが、こいつなりの気遣いだということは分かっていた。
少し離れた場所では、ダリオが真剣な顔で剣の手入れをしていた。
「コンラート殿は、迷わず殿下を庇われたと伺いました。……自分もいざという時、同じように動けるでしょうか」
「型通りに稽古を積んでいれば、身体が自然と動く。案じずとも、お前はよくやっている」
「はい……そう言っていただけると、心強いです」
まっすぐな目でそう返してくるダリオに、俺は毎度のことながら、少しだけ気恥ずかしくなる。
訓練場の端では、バルト殿が黙って稽古の様子を見守っていた。目が合うと、何も言わずに小さく頷かれた。長年この城を見てきたあの人には、あるいは俺の内心くらい、とうに見透かされているのかもしれない。それでも、余計なことは聞いてこない。そういう距離の置き方をしてくれることが、今はありがたかった。
同時に、強い戸惑いもあった。殿下は、まだ子供だ。俺よりも遥かに幼く、これから多くのことを学び、経験し、成長していく方だ。そんな方に対して、こんな感情を抱くことは許されることではない。
自分に、何度もそう言い聞かせた。これは、一時の気の迷いだ。庇護すべき対象への、行き過ぎた責任感が生んだ錯覚に過ぎない。そう片付けようとしても、胸の奥にある感情は、どうしても消えてくれなかった。
自分の中に芽生えたものを、俺は誰にも悟られてはならないと思った。殿下自身にも、他の誰にも。バルト殿にも、レオにも。この胸の内を明かせば、きっと余計な気を遣わせてしまう。それは、俺の望むところではなかった。
この想いは、今はまだ、決して表に出してはならないものだ。殿下が幼いうちは、なおさら。
俺にできることは、これまで通り、忠実な護衛としてお仕えすることだけだ。この感情に飲まれて、殿下との適切な距離を見誤るようなことがあってはならない。今まで通り、一定の間合いを保ち、必要以上に踏み込まず、それでいて、いざという時には迷わず盾になる。それだけを貫けばいい。
いつか殿下が大人になられた時、その時にこの想いをどうするか、また考えればいい。今はまだ、その時ではない。
そう自分に言い聞かせながら、俺は殿下の部屋の前に立ち、いつも通りの表情で扉をノックした。
「殿下、お休みの時間です」
中から返ってきた、いつもと変わらない声に俺は密かに安堵する。
この胸に秘めた想いは、しばらくの間俺だけの秘密だ。




