信頼の基盤
その日は、城下にある神殿への視察に同行することになっていた。年に一度の祭事の前に、王族が顔を出すのが慣例らしい。俺にとっては、何度目かの公務だった。
護衛はコンラートだけでなく、ダリオを含めた数名の騎士が同行することになっていた。人出の多い祭事の前ということもあり、警備体制はいつもより厚めに組まれている。
「今日は人出が多いですね」
石段を上りながら、コンラートが周囲を見渡して言った。祭りの準備で、神殿の周りには露店が立ち並び、大勢の人で賑わっている。串焼きの匂いや、色とりどりの旗、子供たちの笑い声。活気のある光景に、俺は少しだけ気分が浮かれていた。
「賑やかなのはいいことだろ」
「ええ。ただ、人が多いと、それだけ目が届きにくくなります。殿下は、私のそばを離れないでください」
周囲では、ダリオをはじめとした他の護衛たちが、それぞれ持ち場について周囲に目を配っていた。
「分かってる」
軽く返して、俺は神殿の中へと進んだ。神官長の挨拶を受け、形式的な祈りを捧げ、儀式そのものは、思っていたよりも早く終わった。
問題が起きたのは、その帰り道だった。
神殿から石段を下りきったところで、祭りの飾り付けを見物しようと、少し人混みに足を止めた時だった。突然、頭上から悲鳴のような声が上がった。
「上だ、足場が――!」
見上げると、祭りのために組まれていた木製の飾り櫓が、大きく傾いでいた。老朽化していたのか、それとも人が乗りすぎたのか。理由は分からないけど、明らかにこちらに向かって崩れ落ちようとしている。
周りの人々が、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。悲鳴と怒号が入り混じって、一瞬状況が呑み込めなかった。少し離れた場所では、ダリオが近くにいた参拝客を誘導するように叫んでいるのが見えた。
身体が硬直して、動けなかった。
次の瞬間、強い力で腕を引かれた。
「殿下!」
コンラートの声と同時に、視界が反転する。背中から地面に押し倒されるようにして、覆いかぶさられた。
直後、耳をつんざくような音とともに、木材が崩れ落ちる衝撃が伝わってきた。埃と、木片の破片が舞う。すぐ頭上を、太い木材がかすめていったのが分かった。あと少し反応が遅れていたら、と考えるだけで、今更ながら肝が冷えた。
しばらく、何も考えられなかった。ただ、自分を庇うコンラートの背中と、その重みだけを感じていた。心臓が、耳の奥でうるさいくらいに鳴っている。
「……殿下、ご無事ですか」
埃にまみれた顔で、コンラートがこちらを覗き込んでくる。俺は、声を出すのに数秒かかった。
「……ああ」
身体を起こそうとして、コンラートの肩口に、擦り傷が滲んでいるのに気づいた。
「お前、怪我」
「かすり傷です。殿下に当たらなくて何よりでした」
こともなげに言われて、かっと頭に血が上った。
「かすり傷って、血が出てるだろ!」
「これしきのこと、どうということはありません」
「どうということはない、じゃない。お前が庇わなかったら、今頃下敷きになってたんだぞ」
気づけば、声が震えていた。恐怖が、遅れて追いついてきたのかもしれない。あの一瞬、木材が崩れ落ちてくる光景が、まだ目の奥に焼き付いている。手のひらにも、じっとりと汗が滲んでいた。
周囲では、崩れた櫓の後片付けと、怪我人の確認が慌ただしく行われていた。幸い、俺たちの近くにいた人々は、皆それぞれに避難できていたらしい。それでも、あと少しタイミングがずれていたらと思うと、背筋が冷たくなった。
ダリオが駆け寄ってきて、片膝をついた。
「殿下、ご無事ですか。周辺の護衛にも、負傷者はおりません」
「……そうか、良かった」
声を絞り出すようにそう答えると、ダリオは安堵したような顔をした後、すぐに周囲の状況確認に戻っていった。他の護衛たちも、それぞれ手分けをして、避難誘導や崩落現場の確認に当たっている。この場にいた誰もが、自分の役目を全うしようとしていた。
「……殿下をお守りするのが、私たちの役目ですから」
「役目とか、そういう話じゃない」
俺は、震える手で、コンラートの服の袖を掴んだ。
「お前が、無事でよかった。」
自分でも、驚くくらい素直な言葉だった。今までの俺なら、絶対にこんなふうに、感情をそのまま口にできなかったと思う。
コンラートは、しばらく黙っていた。それから、いつになく柔らかい声で言った。
「殿下も、ご無事で何よりです」
その一言に、俺はようやく、詰めていた息を吐き出した。座り込みそうになった俺の身体を、コンラートがそっと支えてくれた。
城に戻ってから、医師に診てもらったコンラートの傷は、本当に大したことのないものだった。それでも、あの瞬間の重みは、簡単には消えなかった。
治療を終えたコンラートが戻ってくるのを、俺は自室の前で待っていた。
「わざわざお待ちいただかなくても」
「待つに決まってるだろ。お前が怪我したのは、俺のせいだ」
「殿下のせいではありません。あれは不運な事故です」
「屁理屈言うなよ」
軽く睨むと、コンラートは珍しく困ったように笑った。その表情に、俺はなんだかほっとしてしまう。
「今日のこと、絶対に忘れない。」
「当然のことをしたまでです」
「当然で片付けるな。……ありがとう」
その一言を口にするのに、随分と勇気がいった。それでも、言わずにはいられなかった。
コンラートは、一瞬だけ目を見開いて、それから深く頭を下げた。
「もったいないお言葉です」
この男は、本当に、迷いなく俺を守ってくれる。損得勘定でも、義務感だけでもなく。
その事実が、今までのどんな言葉よりも、確かな信頼として胸の奥に根を張った気がした。
後日、事故の原因についての報告が上がってきた。飾り櫓を組んでいた木材の一部が、経年劣化で脆くなっていたところに、当日の強風が重なったための倒壊だという。何者かの故意によるものではない、という結論に、ひとまず胸を撫で下ろした。それでも、父上は念のためにと、城下の催事にまつわる警備体制全体の見直しを指示したらしい。
「今後、同様の視察には、護衛の数をさらに増やす」
執務室に呼ばれた際、父上はそう言って、珍しく心配そうな顔を隠さなかった。
「大袈裟だろ。ただの事故だったんだし」
「事故であっても、お前を危険に晒したことに変わりはない。二度は御免だ」
いつになく強い口調だった。政務に忙殺されているはずの人が、ここまではっきりと感情を見せるのは珍しい。俺はなんだか気恥ずかしくなって、視線を逸らした。
「……分かったよ。過保護だな」
「それくらいで、ちょうどいい」
短いやり取りだったけど、父上なりの心配の形が伝わってきて、悪い気はしなかった。
あの日、崩れ落ちる木材を見上げた一瞬、頭の中には色々なことがよぎった。断片的な記憶の中にあった「暴君の末路」も、その一つだった。もしここで死んだら、あの結末を迎える前に終わるのかもしれない、と場違いなことすら考えた気がする。
でも、実際に起きたのは、そんな結末じゃなかった。コンラートが迷わず俺を守ってくれた。それだけの、単純な事実だった。
その夜、寝る前にふと思う。もし、あの暴君になる未来が本当に待っているのだとしても――今この瞬間、コンラートが俺を命懸けで守ってくれたことだけは、紛れもない事実だ。
それだけで、十分な気がした。




