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命の灯火  作者:
18/18

第十七話『同伴』

BAR 命の灯火




午前零時四十分。



客は一人。



二十代後半の女。



どこか疲れた顔をしていた。



それでも酒は進んでいる。



三杯目だった。



「尾鹿さん」



「ん?」



女はグラスを揺らした。



氷が小さく音を立てる。



「猫って恩返しすると思う?」



尾鹿はグラスを磨く手を止めない。



「するんじゃないか」



「即答じゃん」



「猫だからな」



意味は分からなかった。



女は少し笑う。


「何それ」



「知らん」



尾鹿は肩を竦めた。



店内にはジャズが流れている。



他に客はいない。



静かな夜だった。



女はしばらく黙っていた



何かを思い出しているようだった。



やがて。



ぽつりと呟く。



「私さ」





「昔、同伴してくれる猫がいたんだよね」





尾鹿が顔を上げる。



「猫と同伴?」



「そう」



女は笑った。



少しだけ。



寂しそうに。



「変な話でしょ」



「まあな」



「でも本当」



女は酒を飲む。



そして。



静かに話し始めた。









その猫は野良だった。




名前もない。



飼い主もいない。



黒と白の雑種。



右耳が少し欠けていた。



最初に見かけたのは。



店の近くだった。



仕事終わり。



朝方のコンビニ前。



猫は植え込みの上で丸くなっていた。



ただそれだけ。



特別なことは何もない。



でも。



次の日もいた。



その次の日も。



気付けば毎日見かけるようになった。



だから。



なんとなく挨拶するようになった。



「おはよ」




にゃあ。




返事をする日もあった。



しない日もあった。



野良猫なんてそんなものだ。



ある日。



職場の最寄駅へ着いた時だった。


改札の近く。



猫がいた。



「あれ?」



店の近くにいるはずだった。



なのに。



なぜか駅前にいる。



猫は女を見る。



そして。



当然のように歩き出した。



店の方向へ。



女も歩く。



猫も歩く。



一定の距離を保ったまま。



信号を渡る。



路地を曲がる。



そして。



店の前まで来る。



猫は立ち止まった。



「ありがと」



にゃあ。



それだけだった。



翌日も。



また駅にいた。



その翌日も。



また。



まるで待ち合わせでもしているみたいに。



いつの間にか。



店の女の子達にも知られるようになった。



「また来てるじゃん」



「今日も同伴?」



「熱烈なお客さんだね」



みんな笑った。



女も笑った。



「そうだね」



「今日も同伴だね」



猫は興味なさそうに欠伸をした。


でも。



雨の日も。



風の日も。



客に泣かされた日も。



店で褒められた日も。



猫は駅にいた。



いつも。



同じ場所で。



女を待っていた。



だから。



女は少しだけ思っていた。



もしかしたら。



私のことが好きなのかなって。








客の一人だった。



最初は普通だった。



どこにでもいる客。



週に一回来る。



酒を飲む。



少し話す。



それだけ。



だから。



最初は気付かなかった。



DMが来るようになった。



『今日はありがとう』



『楽しかったよ』



普通だった。



女も適当に返した。



仕事だから。



でも。



少しずつ。



内容がおかしくなっていった。



『今帰り?』



『今日は遅いね』



『駅にいた?』



『さっき見たよ』



背筋が冷たくなった。



その日は返信をしなかった。



翌日。



またDMが届く。



『無視しないで』



『悲しい』



『何か悪いことした?』



ブロックした。



数日後。



別のアカウントから連絡が来た。



『どうしてブロックしたの?』



女は店に相談した。



黒服にも話した。



警察にも相談した。



だが。



その時点では何も出来なかった。



脅迫もない。



暴力もない。



ただ。



気持ち悪いだけ。



だから。



みんな口を揃えて言った。



『気を付けてね』



それだけだった。



女も。



そのうち飽きるだろうと思っていた。


ある夜だった。



仕事を終えた女は。



一人で帰宅していた。



終電も近い時間。



人通りは少ない。



家まであと数分。



その時だった。



後ろから声がした。



「やっと二人になれたね」


女の身体が固まる。



聞き覚えのある声だった。



振り返る。



男が立っていた。



あの客だった。



女は何も言わずに歩き出す。



男も歩き出す。



早歩きになる。



男も早くなる。



走る。



男も走る。



女は悲鳴を上げた。



だが。



住宅街だった。



深夜だった。



助けは来ない。



男の手が伸びる。



腕を掴まれる。



引き寄せられる。



女は必死に抵抗した。



だが力では勝てない。



その時だった。



にゃあ。



声が聞こえた。



男が振り返る。



街灯の下。



あの猫だった。


いつもの野良猫。



いつもの同伴相手。



だが。



女は初めて見た。



猫が怒る姿を。



毛を逆立てる。



牙を見せる。



低く唸る。



まるで。



獣だった。



男が舌打ちする。



「うるせぇな」



次の瞬間。



猫が飛んだ。



男の顔へ。



悲鳴。



爪。



血。



男が振り払う。



猫は地面に叩きつけられる。


それでも立ち上がる。



また飛びかかる。



噛み付く。



離れない。



男が蹴る。



猫が転がる。



それでも。



また立ち上がる。



また向かっていく。



女は泣きながら走った。



逃げた。



叫んだ。



助けを求めた。



遠くで誰かの声が聞こえる。


窓が開く音。



人の気配。



サイレン。



男は逃げようとした。




だが。警察の方が早かった。





現行犯逮捕だった。




女は助かった。



命も。



人生も。



全部。



ただ。



猫だけは助からなかった。



女が最後に見たのは。



パトカーの赤い光に照らされた。




小さな背中だった。









話し終えた女は。





少しだけグラスを見つめていた。





氷はもうほとんど溶けている。





尾鹿は何も言わない。






しばらくして。女が口を開く。





「その後さ」



「引っ越したんだ」



尾鹿は頷く。



「店も辞めた」



「名前も変えた」



「今は別のところで働いてる」



女は笑う。



「おかげさまで平和」



「そうか」



「うん」



もうストーカーはいない。



警察からも連絡があった。



男は実刑になったらしい。



だから。



本当に終わったのだと思う。



女は酒を飲み干した。



それから。



少しだけ困ったように笑う。



「でもね」



「ん?」



「今でもたまに聞こえるんだよね」



女は店の入口を見る。



まるで。



誰かが立っているみたいに。



「出勤する時」



「店に入る前」



「たまにさ」



女は少し笑った。





「にゃあって」







その声が聞こえる日は。







なぜだか少しだけ安心する。







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