第十七話『同伴』
BAR 命の灯火
午前零時四十分。
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客は一人。
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二十代後半の女。
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どこか疲れた顔をしていた。
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それでも酒は進んでいる。
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三杯目だった。
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「尾鹿さん」
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「ん?」
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女はグラスを揺らした。
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氷が小さく音を立てる。
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「猫って恩返しすると思う?」
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尾鹿はグラスを磨く手を止めない。
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「するんじゃないか」
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「即答じゃん」
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「猫だからな」
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意味は分からなかった。
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女は少し笑う。
「何それ」
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「知らん」
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尾鹿は肩を竦めた。
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店内にはジャズが流れている。
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他に客はいない。
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静かな夜だった。
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女はしばらく黙っていた
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何かを思い出しているようだった。
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やがて。
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ぽつりと呟く。
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「私さ」
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「昔、同伴してくれる猫がいたんだよね」
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尾鹿が顔を上げる。
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「猫と同伴?」
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「そう」
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女は笑った。
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少しだけ。
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寂しそうに。
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「変な話でしょ」
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「まあな」
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「でも本当」
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女は酒を飲む。
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そして。
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静かに話し始めた。
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その猫は野良だった。
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名前もない。
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飼い主もいない。
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黒と白の雑種。
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右耳が少し欠けていた。
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最初に見かけたのは。
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店の近くだった。
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仕事終わり。
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朝方のコンビニ前。
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猫は植え込みの上で丸くなっていた。
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ただそれだけ。
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特別なことは何もない。
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でも。
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次の日もいた。
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その次の日も。
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気付けば毎日見かけるようになった。
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だから。
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なんとなく挨拶するようになった。
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「おはよ」
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にゃあ。
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返事をする日もあった。
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しない日もあった。
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野良猫なんてそんなものだ。
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ある日。
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職場の最寄駅へ着いた時だった。
改札の近く。
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猫がいた。
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「あれ?」
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店の近くにいるはずだった。
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なのに。
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なぜか駅前にいる。
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猫は女を見る。
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そして。
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当然のように歩き出した。
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店の方向へ。
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女も歩く。
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猫も歩く。
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一定の距離を保ったまま。
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信号を渡る。
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路地を曲がる。
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そして。
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店の前まで来る。
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猫は立ち止まった。
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「ありがと」
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にゃあ。
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それだけだった。
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翌日も。
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また駅にいた。
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その翌日も。
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また。
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まるで待ち合わせでもしているみたいに。
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いつの間にか。
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店の女の子達にも知られるようになった。
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「また来てるじゃん」
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「今日も同伴?」
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「熱烈なお客さんだね」
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みんな笑った。
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女も笑った。
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「そうだね」
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「今日も同伴だね」
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猫は興味なさそうに欠伸をした。
でも。
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雨の日も。
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風の日も。
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客に泣かされた日も。
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店で褒められた日も。
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猫は駅にいた。
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いつも。
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同じ場所で。
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女を待っていた。
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だから。
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女は少しだけ思っていた。
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もしかしたら。
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私のことが好きなのかなって。
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客の一人だった。
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最初は普通だった。
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どこにでもいる客。
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週に一回来る。
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酒を飲む。
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少し話す。
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それだけ。
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だから。
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最初は気付かなかった。
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DMが来るようになった。
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『今日はありがとう』
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『楽しかったよ』
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普通だった。
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女も適当に返した。
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仕事だから。
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でも。
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少しずつ。
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内容がおかしくなっていった。
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『今帰り?』
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『今日は遅いね』
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『駅にいた?』
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『さっき見たよ』
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背筋が冷たくなった。
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その日は返信をしなかった。
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翌日。
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またDMが届く。
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『無視しないで』
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『悲しい』
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『何か悪いことした?』
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ブロックした。
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数日後。
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別のアカウントから連絡が来た。
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『どうしてブロックしたの?』
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女は店に相談した。
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黒服にも話した。
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警察にも相談した。
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だが。
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その時点では何も出来なかった。
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脅迫もない。
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暴力もない。
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ただ。
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気持ち悪いだけ。
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だから。
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みんな口を揃えて言った。
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『気を付けてね』
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それだけだった。
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女も。
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そのうち飽きるだろうと思っていた。
ある夜だった。
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仕事を終えた女は。
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一人で帰宅していた。
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終電も近い時間。
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人通りは少ない。
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家まであと数分。
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その時だった。
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後ろから声がした。
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「やっと二人になれたね」
女の身体が固まる。
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聞き覚えのある声だった。
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振り返る。
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男が立っていた。
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あの客だった。
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女は何も言わずに歩き出す。
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男も歩き出す。
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早歩きになる。
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男も早くなる。
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走る。
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男も走る。
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女は悲鳴を上げた。
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だが。
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住宅街だった。
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深夜だった。
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助けは来ない。
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男の手が伸びる。
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腕を掴まれる。
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引き寄せられる。
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女は必死に抵抗した。
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だが力では勝てない。
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その時だった。
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にゃあ。
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声が聞こえた。
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男が振り返る。
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街灯の下。
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あの猫だった。
いつもの野良猫。
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いつもの同伴相手。
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だが。
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女は初めて見た。
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猫が怒る姿を。
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毛を逆立てる。
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牙を見せる。
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低く唸る。
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まるで。
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獣だった。
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男が舌打ちする。
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「うるせぇな」
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次の瞬間。
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猫が飛んだ。
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男の顔へ。
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悲鳴。
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爪。
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血。
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男が振り払う。
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猫は地面に叩きつけられる。
それでも立ち上がる。
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また飛びかかる。
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噛み付く。
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離れない。
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男が蹴る。
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猫が転がる。
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それでも。
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また立ち上がる。
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また向かっていく。
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女は泣きながら走った。
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逃げた。
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叫んだ。
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助けを求めた。
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遠くで誰かの声が聞こえる。
窓が開く音。
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人の気配。
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サイレン。
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男は逃げようとした。
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だが。警察の方が早かった。
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現行犯逮捕だった。
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女は助かった。
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命も。
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人生も。
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全部。
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ただ。
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猫だけは助からなかった。
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女が最後に見たのは。
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パトカーの赤い光に照らされた。
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小さな背中だった。
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話し終えた女は。
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少しだけグラスを見つめていた。
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氷はもうほとんど溶けている。
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尾鹿は何も言わない。
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しばらくして。女が口を開く。
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「その後さ」
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「引っ越したんだ」
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尾鹿は頷く。
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「店も辞めた」
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「名前も変えた」
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「今は別のところで働いてる」
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女は笑う。
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「おかげさまで平和」
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「そうか」
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「うん」
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もうストーカーはいない。
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警察からも連絡があった。
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男は実刑になったらしい。
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だから。
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本当に終わったのだと思う。
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女は酒を飲み干した。
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それから。
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少しだけ困ったように笑う。
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「でもね」
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「ん?」
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「今でもたまに聞こえるんだよね」
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女は店の入口を見る。
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まるで。
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誰かが立っているみたいに。
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「出勤する時」
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「店に入る前」
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「たまにさ」
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女は少し笑った。
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「にゃあって」
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その声が聞こえる日は。
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なぜだか少しだけ安心する。




