21話 混濁
九月も終わりを迎える頃、笹野瀬市を襲ったヒグマ脱走事件の騒動は嘘のように収まり、街は穏やかな日常を取り戻していた。
全国ニュースで取り上げられたことがきっかけで動物園にはマシューを一目見ようと来場者が殺到。
更に、都山動物園に匿名の資産家という名義で巨額の寄付金が振り込まれ、老朽化が進んでいた檻の改修も進められるようになり、動物たちの生活環境も劇的に改善されたという。
「……禍を転じて福と為すってとこか。世の中捨てたもんじゃないな」
駅前交番のデスクで、秋山が弁当の唐揚げを口に放り込みながら地元紙のローカル欄を眺めていた。
「被害が出る前にマシューを保護できたのが幸いしましたね。それと、地域住民からも長年愛してきた動物園だからか非難より応援の声が大きかったですからね」
怖い思いをしたはずの地域住民からの反応は温かかった。
マシューが保護されたとニュースで報道された後、動物園に「殺処分はしないで欲しい」と近隣住民から何件も電話があったようだ。
(もっとも、殺処分にする予定はなかったが)
「積み重ねだねぇ」
地元の小学生を招待して飼育員体験を催したり、地域貢献活動に惜しまず尽力してきた結果がここにつながった。
末永く存続してくれることを願わずにはいられない。
協力のお礼にと各交番に配布された、マシューのフィギュアがぶら下がったボールペンを勇一が眺めていると、冷蔵庫を覗き込みながら秋山が崩れ落ちている。
「何やってるんですか…?」
「終わった…。味変しようと思ってたのに…」
秋山の手にはほぼ空になったマヨネーズの容器が握られている。
どうやら補充を失念していたようだ。
極めてどうでも良い秋山の嘆きを冷めた目で見ていると、背筋にピリと張り詰めるような、あるいは氷の刃を首筋に当てられているようなおぞましい気配が勇一を襲った。
「?!」
「お?どした?」
目を大きく見開いて全身の毛が逆立つような感覚に襲われた勇一のただならぬ雰囲気に、秋山は怪訝な目を向ける。
「マヨネーズが切れてることがそんなにショックなのか…?」
「ちょっと周辺をパトロールしてきます」
「一人で?どうしたいきなり」
秋山の冗談に一切触れず、足早に裏に停めてある自転車にまたがり、巡回に出発してしまった。
「紺野!ついでにコンビニ寄ってマヨネーズ買ってきてくれ!」
背後から飛んできた秋山のお遣いに右手の親指を立てて応えた勇一は、振り返ることなく駅前方面へと消えて行った。
__
まっすぐ自転車を走らせ、勇一が到着したのは地域最大級のショッピングモール「アニオンモール笹野瀬」前の交差点。
周辺の商業施設への来訪者でいつも交通渋滞が発生している地点だが、今日はいつもより激しい混み具合だ。
交差点からは四方に自動車の長蛇の列が伸びている。
(やっぱりおかしい…)
何ターンか信号のタイミングを観察していたが、挙動がおかしい。
全方面同時に赤になったり、やたら青が短かったり黄色が長かったりと、明らかに正常ではない。
ただ、当然信号機は県警本部の管制センターでモニタリングしており、このような謎の挙動をしていたらすぐにチェックが入るはずだ。
(さっき感じたあの気配、そして本部で察知できていない異常…もしや…)
何か思い当たった勇一は探知スキルを信号機に向ける。
瞳が黄金色の輝きを放ち、四方の信号機に施された呪印が浮かび上がる。
それぞれの信号機から伸びる電線。
その表面に一般人の目には絶対に映らない漆黒の文字が刻まれていた。
禍々しい魔力を放つその文字は、仮に見えたとしても読むことはできない。
なぜなら、その字体はこの世界の物ではないからだ。
「なぜお前の魔力がここにある…魔王…!」
__魔王サザナ。
それは、かつて勇者と決戦の果てに相打ちとなり消滅したはずの魔王。
巨大な漆黒の鎧を身に纏い、容赦なく暗黒魔法を操って人類に仇なし、多くの人々の当たり前の日常を奪った魔の支配者。
その災厄の残滓がこの世界に顕現していたのだ。
今目の前で起きている交通のマヒは間違いなく奴が引き起こしたもの。
勇一は魔王の目的を図ろうと、信号機に刻まれた文字の解読を始める。
(………?)
その内容は意外なものだった。
・青の時間を三十秒短縮
・赤を二分増加
・黄色は二倍か三倍に
・全方向赤を2分
この効果をランダムで繰り返せ
勇一は目をこすってからもう一度見る。
しかし、書いてある内容は先ほど読んだ通り。
(え、しょぼ……)
交番からでも感じることができるほど濃密に練り込まれた魔力。
魔王渾身の魔力が注ぎ込まれたその呪いの内容が、陰湿かつあまりにもしょぼい。
(『因果の鎖は我らだけの物ではない』とか、『既に種は別のことわりへと蒔かれた』とかなんとか、意味深なことを吐いて消えた割にやることがしょぼすぎる…いったい何を目指してるんだあいつは)
危機は去っていないと匂わせるような大層な宣言をしておきながらこの内容。
探知魔法で文字を眺めながら脳内で冷静にツッコミを入れざるを得なかった。
勇一は深い溜息を吐いた。
しかし、内容がしょぼいとはいえ目の前で交通のマヒが生じていることには変わりない。
このまま放っておくと追突事故が発生したり、周辺施設への経済的損失が発生してしまうかもしれない。
ある意味タチの悪い嫌がらせだ。
勇一は信号機の制御盤に近づく。
交差点では相変わらず信号待ちをする数多くの車が列をなしていた。
誰もがこの混沌が魔王によって引き起こされたものだとは気づいていない。
勇一は左手で静かに制御盤の鉄板に触れる。
日差しに焼かれて少し熱い。
手のひらから暗黒魔法を打ち消す光属性の魔力を流し込む。
制御盤の電子回路を伝ってそれぞれの信号機を蝕んでいたサザナの呪いがチリチリと音を立てて消えていく。
「…オノレ、ユウシャ…ッ!」
一瞬、制御盤の基盤から蚊の鳴くような小さな、しかしどこか妙に甲高い呪詛の声が響いた気がしたが、流し込む魔力を少しだけ強めるとその声は完全にノイズに飲み込まれ、消えた。
直後、制御盤のタイマーが正常なカウントへと戻る。
信号は何事もなかったかのように青に変わり、交差点の車の流れは徐々にスムーズになり渋滞は緩和されていった。
「ふぅ…」
少し魔力を使ったせいか、わずかな疲労を感じ汗をぬぐった。
正常なリズムを取り戻した制御装置をねぎらうかのようにぽんぽんと叩くと、背後から聞きなれた声がかかる。
「紺野君?」
呼びかけに振り返ると、違法駐輪の取り締まりでもしていたのだろうか、黒いバッグを肩に掛けポータルを手にした陽菜が立っていた。
「さっきから見てたんだけど、信号機の箱を優しく撫でて何してるの?」
陽菜は呆れたように眉をひそめた。
「あぁ、これはですね、その、巡回していたら信号機の挙動がおかしいことに気付きまして、制御盤をぶん殴ったら直らないかなと」
勇一はそう弁明しながら制御盤をゴンゴンと数回殴る。
「いやいや、昔のテレビじゃないんだから…」
「ですが、直ってくれたようです」
陽菜はスムーズに流れる交差点の車たちをちらりと見る。
「ふぅん…。まぁいいや、管制センターには一応報告しておきなよ?」
そう言うと、続きがあるからと立ち去ろうとする陽菜を勇一が呼び止めた。
「黒瀬さん。最近この辺りでこう、なんというか、プチストレスが溜まるような現象が起きていたりしませんか?」
「プチストレス?何それ?」
陽菜は顎に手を当てて、うーんと考える。
しばらく考えた後に何かを思い出したかのようにぽつりとつぶやいた。
「自販機のおつり…」
「え?」
「同期の子から聞いたんだけど、自販機のおつりが足りないって相談があったらしくて。管理業者の人は中に入っているおつりもちゃんと減ってるから、出てきたおつりが少ないということはあり得ないって」
その話、つい先ほど体験したみみっちさによく似ていると勇一の勘が反応する。
何となくだが、その一件にもあの魔王が絡んでいるような気がしてならない。
「その自動販売機はどこに?」
「えっ、笹野瀬駅西口からウメスタに行く途中の自販機だけど…」
「西口ですか…」
勇一の属する駅前交番は東口。
東口は中央警察署管内だが、西口は笹野瀬西警察署の管轄となり、まったくの管轄外となる。
勤務中の調査には少々面倒くさい手続きが必要だ。
休みの日にプライベートで行ってもよいのだが、寮からはそれなりに距離がある為少しだけ億劫ではある。
(そういえば次の完全休みの日、ウメスタでサッカーの試合があったような…)
「どしたの?大丈夫?」
しばらく視線を下げて考え込んでいた勇一を陽菜が覗き込んできた。
「あ、すみません。自動販売機の件、少し心当たりがあるので今度の休みに見てきます」
「休みの日にわざわざ見に行くの?」
「秋山さんとサッカーの試合を見に行ってみようと思います。そのついでに」
「なるほどね。秋山部長ガチらしいから、倒れないようにね」
秋山のガチサポっぷりは以前体感しているから心構えはできている。
何かわかったら連絡をするという約束をしたのち、陽菜は自転車取り締まりの続きに戻って行った。
(さて、交番に戻ろうかな)
勇一は自転車にまたがると、駅前交番への道のりを戻って行った。
__
「今、なんと?」
秋山は勇一が買ってきたマヨネーズを持ったまま、驚きの表情を浮かべて固まっている。
「フェザンサの試合に連れて行ってくださいと言いました」
改めて勇一の発言を耳から脳に沁み込ませた秋山はマヨネーズを床に落としてしまった。
「ついに…この時が来た…」
秋山は天を仰ぎ何かを噛みしめるかのようにこぶしを握っている。
「チケット、今からでも取れますかね?」
「まかせろ。絶対に用意する」
フェザンサの観戦チケットは一部リーグに昇格してからは全試合即完売。
プレミアチケットと化している。
試合まで三日ほどだが、大丈夫なのだろうか。
「ありがとうございます。楽しみです」
秋山はちょっとスマン、とスマホを操作しながら裏の仮眠室に籠ってしまった。
実のところ以前警備でスタジアムを訪れて以降、少し気にはなっていた。
クール(?)な秋山があそこまで熱中する何かが。
魔王のいたずら調査のついでと思っていたが、週末が少し楽しみになった。
フェザンサ笹野瀬のことを少し調べようとパソコンを開いた瞬間、不意に背後から視線を感じた。
「…?」
窓の外を見てもいつもの緑道公園の緑が映るのみ。
「猫…かな?」
勇一は再びパソコンに視線を戻し、インターネットで検索を始める。
夕方の巡回までは各々好きなように過ごし、駅前交番のいつもの日常が過ぎて行った。
魔王サザナ
数多の魔族・魔物を統べる王。
漆黒の鎧に隠された真の姿を知る者や、それを記した文献は存在しない。
サザナという名も通名で、真名が明かされたこともない。




