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20話 迷える森の王

九月半ば。

笹野瀬市は依然として厳しい暑さに包まれていた。


「残暑と言うか暑中真っ只中だよなぁ…」


朝の挨拶を終え、麦茶をがぶ飲みしながら冷却シートをおでこに貼ってデスクで溶けている秋山が、地域の小学校から届いた残暑見舞いを眺めてぼやく。


小学生のメッセージが書かれたハガキには涼しげな朝顔と風鈴のイラストが描いてあり、気持ちだけでも涼しく思いたいがこの灼熱の中ではどうにもならない。


「…そんでお前は相変わらず涼しい顔しやがって」


向かいのデスクでは汗一つかかずにキーボードを叩く勇一。


同じように外に立って挨拶をしていたはずなのに、本当に同じ人間なのだろうかと秋山が思わず苦笑いしたその時。


交番の無線機が、鼓膜を(つんざ)くような悲鳴に近い声を発した。


『中央署から緊急指令! 都山動物園より、飼育中のヒグマ一頭が脱走した模様! 体長約二メートル、推定体重三百キロ。都山山中に逃げ込み行方不明。各局直ちに現場に向かい周辺住民の安全確保に努めよ』


笹野瀬駅から北西に約二キロ。

標高約八十メートルと丘のように小さな山「都山(みやこやま)」。

山の東側斜面に約70年前から市民に愛されている都山動物園がある。


民営の小さな動物園ながら数多くの猛獣を飼育しており、大人から子供まで猛獣好きから人気のスポットだ。

その都山動物園からヒグマが逃げ出したというのだ。


勇一と秋山の顔から血の気が引いた。


「ヒグマ…!? 冗談だろ?こんな街中に?」

「この暑さと街の喧騒。未知の環境は最強のストレスとなります。クマがパニックに陥ればもはや止める手段は…」


危険があることに変わりはないがヒョウやライオンが逃げ出すのとは訳が違う。

相手は軽トラックをも紙屑のようにひねり潰せる怪物。

北海道の生態系の頂点に君臨する森の王だ。

パニック状態でなくとも生きたまま捕獲するのは非常に困難だろう。


「とにかく、住民の安全が最優先だ。急ごう」


二人は交番に施錠すると、駐車場に駆け足で向かった。

すでに遠方からパトカーと消防車のサイレンの音が幾重にも重なって聞こえてくる。


『~現在、笹野瀬駅周辺地域にてヒグマ一頭が逃走中です。速やかに一番近くの建物に避難してください。繰り返します___』


上空を避難指示を発しながら防災ヘリコプターが飛び去って行く。



「__どうだ?お前はクマに勝てるか?」



パトカーに乗り込むと、運転席の秋山が勇一に問いかける。

じんわりとハンドルを握る手に汗がにじんでいる。


「そうですね。素手で戦ったことはありませんが、長剣があればなんとか」


かつて対峙した「森の魔王」と呼ばれていた巨大なクマ。

旅の道すがら、立ち寄った村で家畜や子供を襲うからと村民から依頼されて討伐した。

巨大な爪を振るいながら突進してくる攻撃は脅威だった。


「アレに比べると今回のクマはずいぶん小さいけど素手だとどうかなー」


と、顎に手を添えながらブツブツと思案を巡らせる勇一に秋山が「プッ」と吹き出す。


「ははは!お前って奴はこんな時にまでゲームの話かよ。まぁなんつーか、ちょっと緊張がほぐれたわ。ありがとな」


過去に確認されたデータでは市北部の山間部でツキノワグマ数頭程度と、県南部に位置する笹野瀬市にはほとんどクマが生息しておらず、普通に生きていたらクマに遭遇することはまずない。

ヒグマとなるとそれこそ動物園で見るか映像の中での生き物だ。


住民を守ることは当然第一だが、もし目の前にヒグマが現れたら、自分にできることはあるのだろうか。

腰に携えた拳銃も、ヒグマの前では何の役にも立たない。


秋山はそんなことをぐるぐる考えている内に、恐ろしくなってしまったのだ。


しかし、助手席の男は「徒手空拳でどう戦うか」を考えている。

あまりに現実離れした思考に思わず笑いがこみ上げ、知らぬ間に手の震えは止まっていた。


(頼もしい後輩だなぁ全く…)


二人が乗るパトカーはけたたましいサイレンを置き去りに、陽炎の向こう側へと消えていった。


__



勇一と秋山は、拡声器で注意を呼びかけながら都山北側斜面に広がる住宅地の坂道を駆け上がっていた。

地元猟友会と熊の行動に詳しい学者が捜索に当たっているが、ヒグマは未だ発見に至っていない。


『現在ヒグマが逃走中です!絶対に建物から出ないようにしてください!』


必死に呼びかけながら走る二人を、民家の二階の窓からは住民が心配そうに見つめている。

周辺では至る所から同じように呼びかける警察官たちの声が聞こえてくる。


(…なぜだ?こんな小さな山でなぜ見つからない)


秋山は焦燥感に駆られるが、都山は杉桧などの人工林ではなくうっそうと茂った天然林が広がっており、夏の間にしっかりと育った草木が捜索隊の行く手を阻む。


ましてや相手はヒグマ。

見通しのきかない藪の中でやみくもに動き回るのは自殺行為に等しく、捜索はなかなか進まないでいた。


「紺野、お前何かわからないか?」

「それが、先程から気配を探ろうとしているのですが山一帯が阻害魔法のようなものに邪魔されていて…」


勇一の探知魔法は、西側斜面に広がるソーラー発電施設から発せられている電磁波によって無力化されていた。

普段人体が感じることのない電磁波だが、探知魔法に対する効果は絶大のようだった。


(…まさかこの世界にも探知阻害魔法陣が設置されているとは)


探知魔法が役に立たない状況で頼りになりそうなのは鼻だが、当然ヒグマの匂いを知っているわけではないためこれも不発。


「そうか、お前でも見つけられないものがあるんだな。ちょっと安心したよ」


勇一にもできないことがある。

当たり前のことだが、なかなか見せない後輩らしい姿に秋山は少し口角を緩ませた。

少ししょんぼりしている勇一の肩をポンと叩く。


気を取り直して呼びかけを再開してほどなくすると、長かった坂の頂点にたどり着く。

坂を登り切った住宅街は、人の気配はなく静まり返っていた。


「紺野。一息ついたら来た道を下ろう」


秋山は額から滝のように流れる汗をタオルでぬぐうと肩掛けバッグからパウチのスポーツドリンクを取り出して勇一に渡す。


「ありがとうございます」


凍らせてあったようで、程よく溶けた冷たい飲み物がのどを癒した。

このあたりの気遣いはさすがの秋山だ。


「はぁー、生き返った。よし、行こうか」


秋山の呼びかけに応じて移動を開始しようとしたその時。

坂を少し下った先にある民家の庭木がざわざわと音を立てて大きく揺れ動いた。


「「…ッ?!」」


二人はその場で身をこわばらせ、とっさに警戒態勢を取った。

役に立つかはわからないが、秋山は腰の拳銃をホルスターから抜いて勇一にアイコンタクトを送ると、ゆっくりとその民家に向けて歩を進める。


民家に近づくにつれて、秋山の鼻でも感じるほどに獣の匂いが漂ってきた。


木製の塀の隙間からそっと覗き込むと、庭木を押しのけながら奥へ進もうとする巨躯が目に入る。

まぎれもなく都山動物園の王と呼ばれている雄のヒグマ「マシュー」だ。


マシューは15年前に北海道の農村でエゾシカの罠にかかってしまった子熊で、数日以内に殺処分される予定だったが、当時猛獣が老衰で相次いで亡くなってしまっていた都山動物園が是非にと打診し、譲り受けた。


以来、迫力のある身体やおやつを要求するときに見せる可愛らしい仕草が人気を呼び、今や都山動物園で最も愛されているマスコットキャラクター的存在だ。


(なんて圧だ。声が出せない……これが、ヒグマ…)


マシューは秋山に背を向けているが、檻を介さないヒグマのあまりの迫力に秋山は指一つ動かせない。

アゴを伝って落ちる汗が地面に丸いシミを作る。


「…さん………秋山さん!」


勇一に小声で呼びかけながら肩を揺すられると、ハッと我に返った。


「痛いです」

「えっ、あっ、スマン…」


無意識のうちに秋山は勇一の手首をつぶれんばかりの力で握りしめていた。

勇一の袖には汗でくっきりと手形が残っている。


「ひとまず、この場を離れましょう」

「そ、そうだな…」


二人はゆっくりと立ち上がり、民家から離れようとする。


『『各位状況を報告せよ。繰り返す。各位状況を報告せよ』』


二人が立ち上がった瞬間、無情にも携帯している小型無線機が本部からの定時連絡を発した。


(ふざけんなぁぁぁぁぁぁぁ……!!)


本部への恨み言を脳内で絶叫しながら再び庭を覗くと、マシューはこちらに向き直り、口元から牙をのぞかせて唸っていた。


「グゥゥゥゥ……!!」


身をかがめ、警戒心むき出しの姿勢を取っている。


『秋山より本部へ。ヒグマ、目の前にいます。5番地の民家です。先ほどの通信のせいで絶体絶命です。助けてください』


半泣きで秋山が報告を終えた瞬間、マシューが爪を振り上げながら突進してきた。


「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


二人が一目散に坂の上に向けて走り出すと、後方で轟音を立てて塀が吹き飛ぶ。

道路に転がり出たマシューは日差しに焼かれたアスファルトに一瞬ひるんだが、逃げる二人を視界に捉えるとものすごい勢いで坂を駆け上がってきた。


ヒグマの走る速さは時速五~六十キロにも達する。

人間が走って逃げれる相手ではない。


(これは無理だ。せめて…)


秋山は隣を走る勇一に一度目配せをしてから突然立ち止まると、拳銃をマシューに向けて構える。


(ははは、あんな奴相手にこんな豆鉄砲で何ができる…いや、動物園の人気者を撃っていいのかそもそも)


少しでもダメージを与えられればと、マシューの前足に狙いを定めて引き金を引こうと人差し指に力を込めた瞬間、ふわりと秋山の身体が持ち上げられた。


「ぉ?おぉ??ちょちょちょ、ままま、待って、え、あぶなっ、えぇぇぇぇぇぇぇ…」


突然持ち上げられたかと思えば、訳も分からぬまますさまじいスピードでマシューの反対方向へ進み始める。

縮まっていた距離が少しずつ離れていく。


「ここここ紺野のののののの、おおおおおおちるるるるる」


秋山を持ち上げたのは勇一。

肩にひょいと担いで坂を駆け下りていく。

秋山は内臓が押し上げられるあの感覚に襲われている。


マシューは追いつけないと悟ったのか、道の真ん中で立ち止まって座り込んだ。

それを見た勇一も立ち止まり、秋山を肩から降ろした。


互いの距離は三十メートルほど。

マシューは何かを確認するようにしきりに周囲の匂いを嗅いでいる。


しばらくその様子を観察していた勇一が、おもむろにマシューに向け歩を進めた。


「何やってんだ紺野!近づくな!!」


すかさず秋山がその場から制止するが、歩みを止めずどんどん近づいていく。

マシューは威嚇するでもなく接近してくる勇一を眺めている。


そしてついに手を伸ばせば届くような距離まで縮まった。

秋山の周りでは駆け付けた猟友会メンバーが猟銃や麻酔銃を構えている。


「…外が怖かったんですよね?もう大丈夫ですよ」


勇一が手を差し出し、まっすぐ見つめながら優しく語りかけると、なんとマシューはおでこを擦りつけて甘えるようなしぐさを見せた。


「そんな…!?ありえない!」


固唾をのんで見守っていた動物園職員などから驚きの声が漏れる。

その視線の先では勇一がまるで犬と遊ぶかのようにマシューとじゃれあっている。


「マシュー。疲れましたよね。少し眠っていてください。起きたら全部元通りですから」


勇一はマシューのおでこに手を乗せると、体内の魔力を送り込んだ。

微弱な電気信号に変換された魔力が神経に作用し、強烈な麻酔作用を引き起こす。


かつて、とある王国に現れた暴龍。

神聖な生き物であるからという理由で討伐を禁じられ、無傷で捕獲せよという無謀な命令を実行するために勇者が編み出したスキル『神聖麻酔(エーテルスリープ)


勇一の手のひらから伝わる安らぎを感じ、マシューの身体はゆっくりと崩れ落ちる。


「もう大丈夫です」


勇一の合図に駆け寄った動物園職員や警察官たちが目にしたのは、規則正しく寝息を立てて穏やかに眠るヒグマと、優しく頭を撫でる勇一の姿だった。


「少し脱水症状が出ているかもしれません。急いで動物園に運びましょう」


勇一は恐る恐るマシューの様子をうかがう獣医師の男性に点滴の準備を指示すると、適当に周りにいた警察官七~八人を捕まえて動物園職員が持ってきた懸吊用ループが付いたマットの上にマシューを移動させた。


手足を持つよう指示された警察官がビビり散らかしていたが、マシューは目覚めることはなくそのままユニック車のクレーンで荷台に設置された籠の中に入れられ、獣医師や職員と共に都山動物園へと帰って行った。


それを見送った警察官達から歓声が上がる。


「お前すごい度胸だな!!」

「俺、クマに触ったの初めてだよ…」

「怖かったなぁーすごい迫力だ」


肩をゆさぶって勇一を称えるものや、非現実的な体験に興奮するものまで様々だが、


__スパァン!!


ふぅ、と一息つく勇一の後頭部に衝撃が走る。


「いっ!?」


振り返ると鬼の形相の秋山が目に飛び込んできた。


「命令無視何回目だテメェ!!!始末書書かせるぞボケェ!!!」

「あっ、やばい」


秋山はマジギレしているとき、「お前」から「テメェ」に変わる。

長時間御説教モードを察知した勇一はその場から逃走を図った。


「待てコラ!!クソっ、速ぇな!?」


秋山も急いで後を追おうとするが、すでに勇一の姿は小さくなっている。


「秋山ぁ~報告書明日の午前でいいぞぉ~」

「ありがとうございます!無線の件はこれでチャラにします!!」


現場指揮官から声をかけられると、軽く敬礼をして坂を駆け下りて行く。


事件解決に貢献した二人が慌ただしく去った現場は「やれやれまたやってら」といった様子で笑いに包まれるのであった。



__




あれから数時間後。

マシューは軽い脱水の症状はあったが、目立った外傷はなく無事に動物園の檻へと戻され、周辺に発令されていた避難勧告は解除された。


飼育員への聞き取りで判明した脱走の原因は、顔の周りを飛び回っていたウシアブが耳に入ってしまい、それに驚いて檻の扉に突進した際に老朽化していた扉の留め金が壊れてしまった為だった。


飼育員の過失ではないものの、特定動物の管理責任上関係者二名が軽犯罪法違反及び動物愛護管理法違反の疑いで中央署に任意同行されることとなったが、飼育員たちからはマシューを殺処分せずに済んだことに対する感謝の連絡があった。


そんな騒動の後、夕暮れの交番で秋山は報告書を書きながら信じられないものを見るような目で勇一を眺めていた。


「……報告書、何て書きゃ良いんだか」

「見たままを書けば良いのでは?」


勇一は制服に付いたクマの毛をチマチマと取りながら軽く答える。


「お前なぁ……まぁ、ありのまま書くしかないかぁ…」


秋山は止まっていたタイピングの手を再び動かし始めたが、またすぐ手を止めた。


「しかしお前、よくヒグマに丸腰で近づけたな」

「えぇ、襲われない確信があったので」


どういうこと?

と、口には出していないが秋山の表情から察した勇一が続ける。


「一貫してマシューが抱いていた感情は恐怖と安堵だったんですよ。おそらく、ずっと動物園で飼育されてますから、外の世界が怖かったのではないでしょうか」


衝動的に民家の柵を破壊してしまったのは無線の音に驚いたからだろう。

そのあと、二人を追いかけてきたときに抱いていた感情は安堵。


「おそらく、ようやく人間を見つけて安心したのでしょう。襲うというよりも助けてほしいという感情が勝っていましたから」

「そうだったのか、まぁ、だとしても俺にはヒグマに近づく勇気はないな。流石に」

「あれくらい、カワイイもんですよ」

「カワイイ…ねぇ…」


秋山はマシューと最初に遭遇した時を思い出す。

平手打ち一発で首から上を吹っ飛ばす巨大な爪、人間よりはるかに大きい体躯。


「うん。やっぱりクマは檻の外から見るに限るな」

「まぁ、私もマシュー以外だとさすがに無理ですね」


普通はマシューでも無理なんだよ。

と、苦笑いを一つ。


秋山は報告書に記載していた

『民家庭先にて遭遇。こちらの存在を認めると威嚇、即座に攻撃行動に出て柵を破壊。その後執拗に警察官を追跡』

という一文を削除し、


『民家庭先にて遭遇、無線の音に驚き逃走を図るも木柵に衝突し破壊』


と書き換えて送信ボタンを押した。


目の前ではクマの毛をすべて取り終え、満足そうに制服を眺める勇一の姿。



今日も笹野瀬市は平和な夜を迎えられそうだ__







かつて神聖王国で災害級に認定されていたドラゴン。

無傷で捕獲せよという国王や貴族たちからの嫌がらせのような要求に復讐を誓った勇者は、麻酔で眠らせた状態のドラゴンを王城の中央広場に放置して立ち去りました。


その後、どうなったかは記録が残っていない。


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