第5話_夕映えの桟橋と新しい約束
騒がしかった馬車の車輪の音が遠くの森の向こうへと消え去り、白樺館には再び、湖のさざ波と小鳥のさえずりだけが響く穏やかな静けさが戻ってきた。
傾きかけた夕陽が西の空を茜色と黄金色のグラデーションに染め上げ、白樺湖の水面がまるで無数の琥珀を散りばめたかのようにキラキラと輝いている。
レオンハルトに導かれるまま、クレアは庭園を抜けて、湖面へと真っ直ぐに伸びる木製の桟橋へと歩み出た。涼やかな夕風が二人の髪を優しく揺らし、岸辺の葦の葉をさらさらと鳴らしていく。
桟橋の先端で足を止めると、レオンハルトは振り返り、先ほど貸してくれた白い編み上げ靴を履いたままのクレアを穏やかな眼差しで見つめた。
「……驚かせてしまったな、クレア。大丈夫か、疲れてはいないか?」
「はい、私は大丈夫です。その……レオンハルト様とマチルダ大夫人様が、あんなふうに私を庇ってくださるとは思っておりませんでしたので、まだ胸がドキドキしておりますけれど……」
クレアは胸元に両手を当て、少しだけ困ったように、けれどどこか照れくさそうに微笑んでレオンハルトを見上げた。
「ですが、レオンハルト様。さきほど大広間で、私を『生涯の伴侶に選ぶ』とおっしゃったのは……お姉様たちを追い払うための方便だったのでしょう? 私たちの『秘密の同盟』は、大夫人様がいらっしゃったら、レオンハルト様の方から円満に破談を申し出てくださるという約束でしたものね」
もしあれが自分を助けるための優しい嘘だったのなら、それを本気にして図々しく振る舞うわけにはいかない。そう思って確認したクレアだったが、次の瞬間、レオンハルトの眉間に今日一番の深い皺が寄り、その端正な顔がみるみるうちに夕陽と同じくらい赤く染まっていった。
「……クレア。君という人は、どこまで自分の価値を低く見積もれば気が済むんだ」
レオンハルトは半ば呆れたように、けれどたまらなく愛おしそうに小さく息を吐くと、一歩踏み出してクレアのすぐ目の前に立った。
「いいか、俺は誰かを追い払うための方便などで、生涯の伴侶という言葉を軽々しく口にするような男ではない。大広間で言ったことは、最初から最後まで、一字一句すべて俺の本心だ」
「え……? 本心、ですか……?」
目を丸くするクレアの両手を、レオンハルトの大きな手がそっと掬い上げるように包み込んだ。ごつごつとした武人の指先から、驚くほど優しくて熱い鼓動が直接伝わってくる。
「すまないが、今朝応接室で結んだ『夕方に円満破談にするための同盟』は、俺の方から一方的に破棄させてもらう。……最初は確かに、伯母上の手前を取り繕って穏便に終わらせるつもりだった。だが、君と白樺の並木道を歩き、ハーブ園で語り合い、サンルームで一緒に昼餉を囲んだあの数時間で、俺の心は完全に変わってしまったんだ」
レオンハルトの琥珀色の瞳が、夕映えの光を受けて深く煌めき、クレアの翠の瞳をまっすぐに射抜いた。
「君は俺の肩書きや財産に媚びることなく、俺が大切にしてきた北の領地の暮らしや草花の話に、心から耳を傾けて笑ってくれた。昼餉で一番美味しそうなパンを口にした時の君の幸せそうな笑顔を見た瞬間、俺は思ったんだ。――ああ、俺はこれから先もずっと、来る日も来る日も、この女性に一番美味しいものを食べさせ、この笑顔を一番近くで守り続けたい、とな」
真っ直ぐで、少しも飾りのない、熱を帯びた告白の言葉。
「だから、夕方が近づくにつれて、自分の口から『破談にする』と言い出さなければならないことが、どれほど苦しかったか。そこへ君の姉君たちが乗り込んできた時は、正直に言えば、これで堂々と破談の約束を反故にして君を奪い取れると、心の中で感謝したくらいだ」
普段は冷静沈着な辺境伯が、少年のように耳の端を赤く染めながら打ち明けた本音に、クレアの胸の奥から、熱い泉が湧き上がるように喜びがあふれ出した。
(私だけではなかったのだわ……。夕方が近づくにつれて、この時間が終わってしまうのが寂しくてたまらなかったのは、レオンハルト様も同じだったのね)
いつも姉の陰に隠れ、誰の目にも留まらない控えめな次女として生きてきた自分を、この人は「身代わり」ではなく、最初から「クレア・ミルトン」という一人の女性として見つけ出し、こんなにも深く求めてくれたのだ。
「でも、レオンハルト様……。私、お姉様のように社交界の華やかな立ち居振る舞いも得意ではありませんし、公爵家や侯爵家のご令嬢のような高い身分があるわけでもございません。そんな私が、本当にオルコット辺境伯家の奥方様になどなってしまってもよいのでしょうか」
クレアがわずかに残った不安を口にすると、レオンハルトは優しく首を横に振った。
「俺が求めているのは、夜会で飾りのように微笑む人形ではない。厳しい北の冬の日にも暖炉の前で穏やかに語り合い、春が来たら一緒に泥にまみれて庭のハーブの芽吹きを喜べる、心の温かい伴侶だ。うちの領民たちも、気取った王都の令嬢より、白樺の樹皮で霜除けを作る知恵を持った君のような奥方を、どれほど大歓迎するかわからないぞ」
レオンハルトは握りしめたクレアの手に、そっと自らの額を寄せた。
「クレア。君はもう、誰の身代わりでもないし、誰のために遠慮して生きる必要もない。俺が、俺自身の意思で選び抜いた、世界でただ一人の女性だ」
その温かい吐息が指先に触れ、クレアの胸が甘く震える。
「王都の屋敷も手に入ったから、寒さが厳しい真冬の間は王都で暮らしてもいいし、春から秋にかけては、あの画集で見た北の領地の白樺林やラベンダー畑を二人で歩こう。君が育てたいと思う花や薬草があれば、城の庭を好きなだけ使えばいい。……だから、クレア。破談の同盟の代わりに、俺と生涯を共にする『本当の同盟』を結んでくれないか。俺の妻になってほしい」
顔を上げたレオンハルトの瞳には、もし断られたらどうしようかと案じるような、真剣で一途な光が揺れていた。
クレアは瞳に浮かんだ幸せの涙を拭おうともせず、今日一番の明るい笑顔を咲かせて、力いっぱい頷いた。
「はい……! はい、レオンハルト様。私でよろしければ、喜んで。冬の北領も、私は少しも怖くありませんわ。破談の同盟は今日で終わりにして、これからは春夏秋冬ずっと、あなたの隣で一緒に歩かせてください」
その返事を聞いた瞬間、レオンハルトの顔がパッと輝き、その長い腕がクレアの華奢な体を優しく、けれど壊れ物を扱うようにしっかりと抱きしめた。
「ありがとう、クレア……。絶対に、君を世界一幸せな花嫁にしてみせる」
レオンハルトの広い胸に頬を寄せると、初夏の風と、先ほど二人で歩いたハーブ園の爽やかな香りがふんわりと漂ってきた。
遠くの館のテラスからは、お茶を終えたマチルダ大夫人と執事のセバスチャンが、夕陽の中で寄り添う二人の姿を温かな笑顔で見守っているのが見えた。
黄金色に輝く白樺湖の夕映えの中で、嘘から始まった二人の見合いは、生涯変わることのない温かな愛の誓いへと結実し、新しい季節の幕を静かに開けたのだった。
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