第4話_招かれざる姉と崩れ落ちる嘘
一階の大広間の扉が開かれると、そこには異様な熱気と緊張が渦巻いていた。
正面の上座には、銀髪を優雅に結い上げた威厳ある老婦人――仲人のマチルダ・フォン・ベルク侯爵大夫人が背筋を伸ばして腰掛けており、そのすぐ脇では、宝石と金糸の刺繍で過剰なまでに着飾った姉のディアナと、ミルトン男爵夫妻が落ち着きなく立ち上がっていた。
レオンハルトとクレアが並んで広間へ入ってくると、ディアナはまずレオンハルトの端正な美貌と堂々たる佇まいを見て、うっとりと目を輝かせた。そして次の瞬間、その隣に立つクレアを見つけるやいなや、般若のように顔を歪めて金切り声を上げた。
「やっぱりここにいたのね、クレア! なんて恥知らずで恐ろしい子なの!」
ディアナはわざとらしく目元にハンカチを押し当て、レオンハルトとマチルダ大夫人の前へと駆け寄って深く膝を折った。
「オルコット辺境伯様、ならびにマチルダ大夫人様! 本日はお見合いの席をこのような形で汚してしまい、何とお詫び申し上げればよいか分かりません! 私こそが、本来本日のお見合いに伺うはずでしたミルトン男爵家の長女、ディアナ・ミルトンでございます!」
突然の芝居がかった名乗りに、クレアは呆気にとられて姉を見つめた。横から父のミルトン男爵と母のソフィア夫人も進み出て、殊勝な顔で頭を下げる。
「誠に面目次第もございません、辺境伯様。実は今朝、長女のディアナが急な偏頭痛で寝込んでしまいまして、少し遅れて午後から伺う旨の使いを出そうとしていたのです。ところが、普段から姉を妬んでいた次女のクレアが、ディアナの部屋から招待状とドレスを勝手に盗み出し、馬車を奪って『自分が長女のディアナだ』と偽ってこの別荘へ乗り込んでしまったのです!」
「まあ、お父様、お母様、お姉様……!? な、何を言っていらっしゃるのですか! 今朝、お姉様とお母様が私に身代わりで行くようにと……」
クレアが思わず声を上げると、ソフィア夫人が扇でクレアの言葉を遮るように鋭く睨みつけた。
「黙りなさい、クレア! 姉の素晴らしいご縁を横取りしようと名前を騙るなんて、親として恥ずかしいにも程があります! さあ、辺境伯様、この卑しい嘘つきの妹は私どもが厳しく罰して連れ帰りますので、どうか本来の婚約者候補である長女のディアナと、改めてお見合いを進めてくださいませ!」
「ええ、レオンハルト様! 私、今朝ちょうど王宮から発表されたご布告を伺いましたわ! オルコット辺境伯領の新たな大銀山の採掘権と北方交易の独占権が認められ、王都の中央区に侯爵格の素晴らしいお屋敷まで下賜されたのですってね! 私、そんなご立派なレオンハルト様の妻として、王都の社交界で華やかにお支えする覚悟ができておりますのよ!」
うっとりと頬を染めて言い放つディアナの言葉を聞いて、クレアにはすべての事情が氷解した。
今朝クレアを送り出した直後に、王宮からオルコット辺境伯家への莫大な褒賞と王都の屋敷下賜の布告が出たのだ。それまで「雪深い北の田舎武人なんて真っ平ごめん」と見下していたディアナと両親は、レオンハルトが王都でも使える莫大な富と栄誉を手にしたと知るやいなや、掌を返して縁談が惜しくなり、クレアを「勝手に姉の名を騙った泥棒」に仕立て上げて縁談を奪い返しに来たのだった。
あまりの身勝手さと冷酷さに、クレアは言葉を失って立ち尽くした。
だが、その隣で静かに話を聞いていたレオンハルトの口元には、氷のように冷ややかな笑みが浮かんでいた。
「……なるほど。ミルトン男爵家の言い分はよく分かった。つまりそちらの長女ディアナ嬢は、『次女のクレアが最初から長女ディアナの名を騙って俺に近づき、今も俺を騙し続けている』と主張するわけだな?」
「はい、その通りでございますわ! 妹は昔から嘘つきで、私のものを何でも欲しがる卑しい娘なのです!」
ディアナが勝ち誇ったように頷いた、その時だった。
「――おかしなことをおっしゃるわね、ディアナ嬢」
静まり返った広間に、上座に座っていたマチルダ大夫人の凛とした声が響き渡った。大夫人は膝の上から一通の封書を取り出し、ミルトン男爵夫妻の前へと掲げて見せた。
「今朝の十時過ぎ、この白樺館の執事セバスチャンから、王都の私の屋敷へ早馬で届いた到着報告書には、最初からこう記されておりましたよ。『本日来訪されたご令嬢は、長女ディアナ嬢ではなく、次女のクレア・ミルトン嬢であるとご本人より丁重に申し出がありました』とね」
「えっ……!?」
ディアナと両親の顔から、サッと血の気が引いた。
「クレア嬢は別荘に到着して最初の挨拶の席で、自分が次女のクレアであることを正直に名乗り、非礼を詫びたそうですよ。どこに『姉の名前を騙って潜り込んだ嘘つき』がいるのかしら? むしろ、今ここで見え透いた嘘をついているのは、あなた方の方ではなくて?」
マチルダ大夫人の鋭い指摘に、ミルトン男爵は脂汗を浮かべて口ごもった。しかしディアナは焦りながらも、必死に言葉を繕ってレオンハルトへすがりついた。
「ち、違いますわ! たとえ名前は名乗っていたとしても、事前にお送りした釣書に書かれていた教養や、北方の自然や植物を愛する心はすべてこの私のものですわ! クレアなんて、ただ私の真似をしてお話を合わせただけに決まっております!」
「ほう、北方の植物を愛する心が君のものだと?」
レオンハルトが一歩前へ進み出て、冷徹な琥珀色の瞳でディアナを見下ろした。
「ならばここで答えてもらおうか、ディアナ嬢。先ほど俺は、この別荘の湖畔にあるハーブ園を案内し、北方の厳しい霜と北風から新芽を守るための工夫について語り合った。君が本当に植物を愛し、俺の領地のことを想っているというなら、ラベンダーの周囲にどのハーブを風除けとして植え、根元に何を敷き詰めれば霜を防げるか、今すぐここで説明してみろ」
「え……? ラ、ラベンダーの周りに、何を植えるか、ですって……?」
ディアナの目が泳ぎ、華やかに塗られた唇がわなわなと震えた。普段から庭の土に触れることすら「爪が汚れる」と嫌悪していたディアナに、薬草の名前や霜除けの工夫など分かるはずもなかった。
「そ、そんな泥臭い畑仕事みたいなこと、私のような高貴な令嬢が知るわけないでしょう!? 私は王都の夜会で美しい薔薇を飾ることなら知っておりますけれど、北の田舎の雑草のことなんて……あっ!」
苛立ちのあまり本音を叫んでしまったディアナは、自分で自分の口を両手で覆ったが、もう手遅れだった。
広間の空気が凍りつく中、レオンハルトは心底軽蔑したように息を吐き、クレアの肩をそっと抱き寄せて全員の前へ向き直った。
「よく聞け、ミルトン男爵夫妻、ならびにディアナ嬢。正直に言おう。俺は最初、王都の貴族たちの打算や見栄に辟易しており、今日のお見合いも伯母上の顔を立てるためだけに形式上受けたものだった」
レオンハルトの声は、大広間の隅々まで凛と響き渡った。
「だが、今朝ここへやって来たクレアは違った。彼女は姉から『破談にしてこい』と身代わりを押し付けられたにもかかわらず、初対面の俺に対して嘘をつくことを良しとせず、自分の不利益を顧みずに真実を打ち明けてくれた。そして今日一日、俺の爵位や銀山の利益などには目もくれず、俺が育てているハーブ園の工夫に目を輝かせ、俺の領地の料理を心から美味しいと笑顔で食べてくれた」
レオンハルトは隣に立つクレアを見つめ、その瞳に深い慈しみと決意の色を宿した。
「今日の王宮の布告のことは、伯母上にも伏せていた。銀山や屋敷の話が先に出れば、見合いの相手が見るのは俺ではなく財産になると分かっていたからな。……結果はどうだ。田舎武人と侮って妹に身代わりを押し付け、金と屋敷の話が出た途端に駆けつけて妹を泥棒呼ばわりするような人間と、誰に強いられるでもなく誠実な心を尽くしてくれたクレアと、俺がどちらを生涯の伴侶に選ぶかなど、考えるまでもないだろう!」
「そ、そんな……! 辺境伯様、どうかお待ちください! クレアはただの次女で、社交界の経験もろくにない地味な娘なのですよ!?」
慌てふためくミルトン男爵を、マチルダ大夫人が扇をぴしゃりと閉じて一喝した。
「お黙りなさい、ミルトン男爵! 私の可愛い甥と、仲人であるこの私をここまで愚弄しておいて、まだ言い訳をするつもりですか! 本日をもって、ベルク侯爵家およびオルコット辺境伯家からミルトン男爵家の商会への融資話はすべて白紙撤回いたします。さらに、あなた方が見合いの席でどれほど卑劣な身代わり工作と虚言を弄したか、社交界のすべての夜会で私が証人としてお伝えして差し上げましょう!」
「ひっ……! 大夫人様、それだけはどうかご勘弁を……! 大夫人様に後ろ盾を切られたら、我が家は社交界はおろか商会の信用まで完全に失ってしまいます!」
「自業自得ですわ。……ただし、クレア嬢。あなただけは別です。今日この場から、私があなたの親代わりとなって後見人を引き受けます。あのような実家へは、もう二度と戻らなくてよろしい」
マチルダ大夫人が威厳に満ちた温かな笑顔をクレアに向けると、レオンハルトが執事のセバスチャンに目配せをした。
「セバスチャン。ミルトン男爵夫妻とディアナ嬢をお見送りしろ。二度と我が家の敷居を跨がせるな」
「かしこまりました、旦那様」
泣き叫びながら抗議するディアナと、青ざめて膝から崩れ落ちそうになる両親が執事と使用人たちによって広間から連れ出されていく。
嵐が去ったあとの静かな大広間で、マチルダ大夫人はレオンハルトとクレアの並んだ姿を満足そうに見つめると、「私は少し旅の疲れを癒やしてお茶をいただいてくるわ。あとの大切な話は、二人きりで済ませていらっしゃい」と優しく微笑んで広間を出て行った。




