第2話_白樺の並木道と飾らない素顔
秘密の同盟が成立すると、応接室に漂っていた堅苦しい空気は、春の雪が溶けるようにすっかり消え去った。
「では同盟の第一歩として、まずは前提を整えておこう」
レオンハルトは立ち上がって呼び鈴を鳴らし、控え室からやってきた老執事のセバスチャンに落ち着いた声で指示を出した。
「セバスチャン。本日お見えになったのは、長女のディアナ嬢ではなく、次女のクレア・ミルトン嬢だ。先ほど本人から丁重に申し出があった。伯母上へ送る到着報告の書状にも、間違いなく『次女クレア嬢が来訪された』と記して使いを出しておいてくれ」
「かしこまりました、旦那様。ただちに手配いたします」
セバスチャンは少しも動じることなく恭しく一礼し、クレアに向かって温かな微笑みを向けてから部屋を出て行った。クレアが驚いてレオンハルトを見ると、彼は軽く肩をすくめて見せた。
「最初から本当の名前で記録を残しておけば、あとで誰かに『姉の名前を騙って潜り込んだ』と難癖をつけられる心配がないからな。君は嘘をつかずに自分の名前を名乗ったのだから、堂々とクレア・ミルトンとしてここにいればいい」
自分が気づかなかったところまで先回りして守ろうとしてくれる彼の細やかな配慮に、クレアは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「ありがとうございます、オルコット辺境伯様」
「同盟相手なのだから、堅苦しい爵位で呼ぶのはなしにしよう。レオンハルトと呼んでくれ。俺もクレアと呼ばせてもらう」
「えっ、で、ですが、さすがにそれでは……」
「夕方に伯母上が来た時、よそよそしすぎると『最初からろくに話もしていないのではないか』と疑われてしまうぞ。目の肥えた伯母上を納得させるためにも、打ち解けた雰囲気を作っておくのは同盟の重要な任務だ」
真面目な顔でそう言われると、断る理由が見つからない。クレアは少し頬を染めながら、「……分かりました、レオンハルト様」と小さく呼び直した。レオンハルトは満足そうに頷くと、窓の外に広がる庭園へと視線を向けた。
「せっかくいい天気だ。昼餉の時間まで、庭園と湖畔の並木道を散歩しないか。部屋に閉じこもったままでは退屈だろう」
「はい、ぜひ伺いたいですわ!」
外の空気を吸うのが好きなクレアが笑顔で応じると、二人は並んで応接室を出た。
テラスの石段を降り、手入れの行き届いた芝生の小径を歩き始めた時だった。白樺の並木道へ続く緩やかな坂道に差しかかったところで、クレアの右足が小さくもつれ、体が前へと傾いた。
「っ、きゃ……!」
地面に手をつくと思った瞬間、隣を歩いていたレオンハルトのたくましい腕が素早く伸びてきて、クレアの腰をしっかりと支え止めた。
「大丈夫か、クレア。怪我はないか?」
「は、はい……! ありがとうございます、レオンハルト様」
至近距離で見上げたレオンハルトの真剣な瞳にドキリとしながらも、クレアは慌てて体勢を立て直した。レオンハルトの視線が、クレアの履いているエナメル革のパンプスへと落ちる。
「……その靴、少しサイズが大きいのではないか? かかとの部分に隙間ができているし、歩きにくそうだ」
図星を突かれ、クレアは気まずそうにドレスの裾で足元を隠した。
「その……今朝、急遽お姉様のドレスと靴を借りて出てまいりましたので、少しだけ足の形が合っていなくて……。でも、ゆっくり歩けば平気ですわ」
クレアより足のサイズが一回り大きい姉ディアナの靴は、歩くたびにかかとが浮いてしまい、車寄せから応接室まで歩く間もずっと足の指先に力を入れて耐えていたのだ。
するとレオンハルトは眉を寄せ、すぐ近くの木陰にあった木製のベンチを示した。
「無理をするな。ここに座って少し待っていろ」
レオンハルトはクレアをベンチに座らせると、近くに控えていたメイドに何かを耳打ちした。数分も経たないうちにメイドが持ってきたのは、柔らかな仔牛の革で作られた、白いリボン付きの編み上げ靴だった。
「この別荘には、乗馬や湖畔の散策をする来客のために、いくつか予備の靴が揃えてある。それなら紐で幅を調整できるから、君の足にも合うはずだ」
レオンハルトはそう言うと、なんと自分からベンチの前に片膝をつき、クレアの足元へと手を伸ばした。
「えっ、レオンハルト様!? ご自分でなさらなくても、私一人で履き替えられますわ!」
「構わない。高いヒールの靴で無理に歩かせてしまったのは、誘った俺の不注意でもあるからな」
レオンハルトは驚くクレアの足から大きすぎるパンプスをそっと脱がせると、新しい編み上げ靴を丁寧に履かせ、ほどよい加減で革紐を結んでくれた。大きな手で足首を優しく支えられるたび、クレアは恥ずかしさとくすぐったさで耳の先まで熱くなった。
「……どうだ、痛むところはないか?」
「はい、まるで最初から私のために誂えたみたいにぴったりです! とても軽くて歩きやすいですわ」
立ち上がって一歩踏みしめたクレアがぱっと顔を輝かせると、レオンハルトもほっとしたように口元を綻ばせた。
「それはよかった。ついでだから、その窮屈そうなレースの襟飾りも外してしまえばいい。ここには君を値踏みするような人間は一人もいないのだから、君が一番楽な姿で過ごしてくれ」
その言葉に背中を押され、クレアが首元の重たいフリルの襟飾りを外すと、湖から吹いてくる爽やかな風が首筋を優しく撫でていった。
再び並んで歩き始めた二人の足取りは、先ほどよりもずっと軽やかだった。白樺の並木道を抜けると、湖岸に沿って色とりどりの草花が植えられた広いハーブ園が広がっていた。
「まあ、すごい……! ラベンダーやカモミールの周りに、背の高いローズマリーと銀葉のヨモギが風除けのように囲んで植えられていますわね」
クレアが思わず足を止めて花壇を覗き込むと、レオンハルトが驚いたように目を見張った。
「よく気づいたな。ただの観賞用の植え方ではなく、風除けの配置だと分かるとは思わなかった」
「実家の裏庭の隅で、私も少しだけ薬草や野菜を育てておりますの。春先の冷たい風が吹く場所では、根の強い木本性のハーブを外側に植えてあげないと、中の柔らかい新芽が傷んでしまいますから」
クレアが葉の並びを指差しながら楽しそうに話すと、レオンハルトの琥珀色の瞳に、深い感銘の光が宿った。
「実はこの花壇は、俺が王都へ来るたびに別荘の庭師と相談して試している、北方領向けの栽培試験なんだ。うちの領地は春が遅く、強い北風が吹くから、こうして寒さに強い品種で囲いを作ることで、少しでも多くの薬草や野菜を育てられないかと工夫しているところでな」
「素敵な取り組みですわ! もし北方の冷たい土地でしたら、根元に砕いた白樺の樹皮や落ち葉を敷き詰めてあげると、夜の霜から根を守ることができますし、土もふかふかになりますよ」
「白樺の樹皮を敷き詰めるのか……! なるほど、うちの領地なら白樺はいくらでもある。早速領地の農務官に手紙を書いて試させてみよう」
レオンハルトはポケットから小さな革張りの手帳を取り出し、万年筆でクレアの言葉を熱心に書き留めた。
その真剣な横顔を見つめながら、クレアは不思議な気持ちになっていた。王都の社交界では、ディアナをはじめとする令嬢たちがこぞって「オルコット辺境伯は戦と狩りしか知らない無骨な田舎武人だ」と噂していた。けれど、目の前にいる彼は、領民たちの食卓や暮らしを少しでも豊かにしようと、別荘の庭で自ら土や草花と向き合っている誠実な領主だったのだ。
「どうした、俺の顔に何か付いているか?」
手帳をしまったレオンハルトに尋ねられ、クレアは慌てて首を振ってから、ふわりと微笑んだ。
「いいえ。ただ、王都で聞いていた噂というのは、本当に当てにならないものだと思いまして。レオンハルト様は、無骨で怖い方どころか、領地の方々や植物のことを誰よりも大切に考えていらっしゃる優しい方ですわ」
真っ直ぐにそう言われたレオンハルトは、一瞬言葉を失ったように目を見開き、やがて気恥ずかしそうに自分の首筋を撫でた。
「……俺のことをそんなふうに言ってくれたご令嬢は、君が初めてだ。王都の夜会で会う連中は、俺の領地の銀山がどれだけ利益を生むかとか、王都にどんな屋敷を持っているかという話ばかりで、泥や肥料の話などしただけで眉をひそめて逃げていくからな」
レオンハルトは湖の方へ視線を向け、穏やかな声で続けた。
「だが、君と話していると、まるで昔から知っている友人と北の草原を歩いているみたいに息がしやすい。……もし、今日が『破談にするための同盟』でなければ、君に本当のオルコット領の白樺林を見せてやりたかったな」
初夏の風に揺れる湖面を背景に、ふと漏らされたその言葉。
クレアの胸の奥で、トクン、と小さな鼓動が跳ねた。今日が終われば円満に破談にして他人へ戻るはずの約束なのに、彼の隣を歩くこの時間が、クレアにとってはこれまで経験したどんな外出よりも心地よく、特別なものに思われ始めていた。




