2章7話「イレギュラーボスとの遭遇」
中層を歩き始めて、どれくらい経っただろう。
時間の感覚は、とうに狂っていた。
体感では、一日中歩き続けている気がする。
無理に歩き続けたしずくの足は、限界が近づいていた。
「……っ……はぁ……っ」
しずくの呼吸が荒い。
歩くたびに痛みが走るのか、肩が震えている。
「しずく、無理すんな。少し休むか?」
「……だ、大丈夫……歩ける……」
そう言いながらも、しずくの足取りは明らかに重い。
俺はしずくの肩を支えながら、魔物の気配を避けつつ進んだ。
(そろそろ……どこか見晴らしの良い場所に隠れて、助けを待つべきか?)
だが、ここが正規ルート上にある保証はない。
救助が来るかどうかもわからない。
立ち止まれば、魔物に囲まれる危険もある。
(……進むしかない)
正体のみえないプレッシャーに押し潰されそうになりながらも、
俺は前に進む決断をした。
湿った空気の中をしばらく歩き続けていると、
ふと、前方の空気が変わった。
「……ん?」
湿気が薄れ、風が少しだけ乾いている。
苔の光も弱まり、岩肌がむき出しになっている。
「この先……空気が変わってる。
階段が近いかもしれない」
「ほんと……?」
しずくの声に、わずかな希望が宿った。
そのまま進むと――
視界の先に、石造りの階段が現れた。
「……あった……!」
しずくが小さく息を呑む。
俺も胸の奥で張りつめていた糸が切れたように、
安堵がこみ上げた。
「よし、行こう。これで――」
救いがようやく目の前に現れた――そう思った瞬間だった。
――グルルルルル……
低く、地を震わせるような唸り声が響いた。
「……っ!」
俺は反射的にしずくを背にかばい、周囲を見渡す。
暗闇の奥から、巨大な影がゆっくりと姿を現した。
「な、に……あれ……」
しずくが震える声で呟く。
通常のゴブリンより二回りは大きい。
筋肉が異様に膨れ上がり、片目が赤く光っている。
皮膚は黒ずみ、ところどころ裂けて蒸気のようなものが漏れている。
生き物というより、呪いが形を取ったような異様さだった。
昨日聞いた唸り声と同じ――
いや、それ以上に禍々しい。
(……イレギュラーボス……!)
一瞬、頭が真っ白になった。
それでも、なぜと考えるより先に身体が動いていた。
階段は塞がれていない。
だが、捻挫したしずくを背負って逃げても、
あの巨体が先に階段へたどり着く。
「倫太郎……っ、私を置いて行って……!
あれは無理だよ……!」
「ふざけんな。置いていくわけないだろ!!」
俺はしずくの肩に手を置き、静かに言った。
「しずくは……絶対に生きて帰れ。
俺が時間を稼ぐ」
「だめ……だめだよ……!
倫太郎が死んじゃう……!」
しずくが泣きそうな顔で俺の腕を掴む。
その手は震えていた。
「大丈夫だ。俺は死なない。
しずくを守るって決めたからな」
俺はしずくの手を優しく外し、
階段から離れた岩陰へと押しやった。
「かならず助けはくる。最後まであきらめるな」
「倫太郎……っ!」
しずくの叫びを背に、
俺は片手剣と小盾を構え、イレギュラーボスの前に立った。
少しでも身軽に動けるように予備の短剣はしずくに預けておく。
――グオオオオオッ!!
咆哮とともに、巨体が突進してきた。
「っ……!」
盾で受け止めた瞬間、
腕に激痛が走り、全身が後ろへ吹き飛ばされそうになる。
(重っ……! これ……受けるだけで精一杯だ……!)
それでも、倒れるわけにはいかない。
しずくが後ろにいる。
俺が倒れたら、しずくが――。
「はぁっ!!」
俺は剣を振り、相手の腕をかすめる。
だが、傷は浅い。
逆に、反撃の拳が飛んできた。
「ぐっ……!」
小盾で受けるが、衝撃で視界が揺れる。
足がふらつき、膝が落ちそうになる。
(……やばい……)
それでも、後退しながら攻撃を受け流し、
少しでも時間を稼ぐ。
イレギュラーボスの咆哮が洞窟に響き、
空気が震える。
「倫太郎!!」
しずくの叫びが聞こえる。
その声だけが、俺を立たせていた。
だが――
「っ……!」
巨体の一撃が盾を弾き飛ばし、
俺の身体は壁に叩きつけられた。
「がはっ……!」
肺の空気が一気に抜け、
視界が白く染まる。
「倫太郎!! やめて!!
お願い……やめてぇ!!」
しずくの悲鳴が響く。
イレギュラーボスがゆっくりと近づいてくる。
赤い片目が、俺を獲物として見下ろしていた。
(……立て……立て……!)
足が震える。
腕も上がらない。
それでも――
(しずくを……守らないと……)
しずくが短剣を握りしめて立ち上がろうとするが、
足が痛みで崩れ、地面に倒れ込む。
「しずく……来るな……!」
声にならない声で叫ぶ。
視界が揺れる。
音が遠のく。
意識が暗闇に引きずり込まれていく。
それでも――
しずくを守りたい思いだけが、遠のく意識を現実につなぎ止めていた。
(守らなきゃ……しずくを……)
イレギュラーボスの影が、
俺の上に覆いかぶさる。
――終わる。
そう思った瞬間、
視界が完全に暗転した。




