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第8話



 満希は桶と麻袋を持って、裏庭に出た。


 裏庭の主である、青い羽のココ鳥は、満希を歓迎せず威嚇する。

 刺激しないように離れたところに桶を置いた。


 桶に、麻袋に入った下着を放り込んだ。

 知り合って間もない彼に任せる訳にはいかないため、最近はひっそりと洗っている。

 

 満希は昔から朝が早かった。

 まだ霧が漂うこの時間は、彼女を隠すのに好都合だった。




 満希は視線を感じ、山を覆う深い森に目を向けた。

 

 朝霧の向こうから現れた、白い獣がこちらを見つめている。

 遠くからでもわかるその神聖な佇まいに不思議と恐怖は感じない。

 息が漏れるほど美しく、満希は目を離せなかった。

 

 満希は手の中にある麻袋を思い出し、視線を逸らして作業を再開する。

 嫌な感じはしないので、刺激しないことにした。

 

 

 犬は妙に落ち着き、あの境界線と似た気配をまとっていた。

 胸がすうっと軽くなるような、不思議で特別な感覚。

 

 

 しばらくして作業を終えると、犬はいつの間にかすぐそばに座っていた。

 近くで見ると顔は凛々しく、特徴的な色素の抜けた瞳は狼みたいだった。

 

 

「(夢と同じ目……)」

 

 数日前に夢に見た狼と似ていた。

 夢の狼は、満希の背丈よりもずっと大きかったけど、同じ満月色の瞳だった。



 警戒されているだろうか――満希は目線を合わせてゆっくり手のひらを差し出すと、犬はそれを長い鼻先で匂いを嗅ぐ。

 

「……私は、満希だよ」

 囁くように呟き、声をかけた。名前を拾う耳がぴくりと動く。


「ここでお世話になってるの」

 大きな身体を、夢中になって彼女へと寄せて、背中や腕の間をしきりにかぎ回っていた。

 満希は邪魔しないようにじっと待っていた。


 犬は何かを探すようにポケットを鼻でぐりぐりと押し付けてくる。

 ポケットからは、フィルから貰ったくるみの形をした練り香が出てきた。満希はお守りのようにいつも持ち歩いている。


「フィルから貰ったんだよ」

 それを興味ありげに、入念に嗅いでいた。

 満希は食べられないように気をつけながら、大人しく見守った。


「ワフッ」

 満足したように小さく鳴いた。

 何を言っているか満希にはわからなかったが、何かを伝えようとしている気がした。


 

 犬はぐるりと回って、大きな頭を満希の膝の上へ、すとんと預けた。

 

 膝に乗った温度に、満希は声を失う。

 胸の奥で、張り詰めていた何かが音を立てて解けていった。

 彼女の目尻が、リリンを愛でるときと同じように優しく下がる。


 

「お利口さんだね」

 

 宝物を扱うように、そっと両手を白い毛並みに添えた。

 触れた場所から伝わる、生き物の確かな温かさと、絹のように滑らかな手触り。

 耳の後ろの少し柔らかい毛に触れたとき、満希は胸の奥がじんわりと熱くなる。


 昔、祖母の家で飼っていた大きな犬を思い出した。

 警戒心が強く、祖母のそばにばかりいた犬だった。

 少しずつ距離を縮めて、ある日、お腹を見せてくれた時の感動を今でも覚えている。

 

 大きさも同じくらいで、淡い瞳もよく似ている。

 狼のような見た目で、気の許した相手には驚くほど無防備になるところまで。


 

 境界線の気配と、神秘的なたたずまい。

 満希は手を動かしたまま口を開いた。

 

「……あなたは霧神様の、お使いの方?」

 

 犬は、くぅーんと鳴いた。

 まるでそうだと答えた気がして、満希の目は輝いていく。


「やっぱり!……霧神様によろしくお伝えしてね」

 犬はちらりと満希を見て、フンっと息を吐いた。



 朝霧が晴れると、犬はのっそり立ち上がった。

 日の光にあたると、白い毛は光を受けて白銀のように輝いた。

 夢の続きを見ているような気持ちになる。


 踵を返し森に返っていく姿を、満希は名残惜しく見つめていた。


「……かわいかった」

 

 満希は骨抜きになっていた。




 

 

 自室で洗濯物を干していると、ばたばたと慌てる足音が聞こえた。

 

「フィル、おはようございます」

「あ!おはよう」


 寝ぐせがぴょこんと跳ねたフィルは、慌てた様子で部屋中走り回っている。

 時計を見るといつもより起きる時間が遅い。

 

「やっぱり徹夜はリズムが崩れるな……」

 彼は寝坊した。

 ぼやきながら、壁にかけられた荷物をひとつずつ手にしていく。


「フィル、部屋の奥のほうき使っていいですか?」

「好きにしていいよ!ちょっと行ってくるね!あ、朝ごはん先食べてね!」


 彼は慌ただしく朝の山の巡回へ行った。

 ぽつんと残された満希は、ちいさく息を吐いた。

 



「(……よし!)」

 食事を済ませた満希は掃除道具を手にし、気合を入れた。

 お世話になっている身として、忙しい彼の代わりせめて掃除をしたいと考えていた。

 

 しんと静まる部屋は、少し落ち着かなかった。

 しかし、ようやく楽に呼吸ができるようになったと満希は感じていた。


 

「……わ」

 掃除を進めているうちに、あまり近づかない彼の部屋の前まで来た。

 慌ただしく開けられたままのドアから、薬草の匂いが漂ってくる。

 満希は好奇心に負け、中をのぞいた。


 

 部屋は薄暗く、カーテンの隙間から漏れる一筋の光が落ちていた。

 床や机のあちこちに本が積み上がり、机上の詰まれた本の隙間に、書類が散乱していた。

 ほこりが光を反射し、たまに微かに光る。

 

 空気が悪く、薄暗い。きのこでも生えてしまいそうだ。

 満希はずいぶん迷ってから、換気をするために入ることにした。


 

「……失礼します」

 フィルには心で何度も謝り、彼の部屋に足を踏み入れた。

 足の踏み場がないくらい、床にはたくさんの本が積みあがっている。本の山の間を縫って、奥へと進んだ。

 満希の部屋には近づかない精霊が、暗い部屋の中で淡く光り、本の輪郭をぼんやり照らしている。



 窓を開けると、部屋が明るくなり冷えた空気が入ってきた。

 精霊は満希を褒めるように、小さく跳ねていた。


 

「(フィルが帰ってくるまでに窓を閉めよう)」

 踵を返すと、積みあがった本に触れてしまい、山を崩してしまった。

 

「……ああ……」

 やってしまった。本を積み上げなおすと、一冊の本が目に入った。

 日本語で書かれたタイトルに目がいく。

 

 

「『裏人のための食材表』……?」


 

 興味本位で本を開くと、野菜などを日本語で説明している。

 昨日手にした赤いたまねぎのような野菜も丁寧な説明がついついる。

 日本のものより酸味が強い。煮込むと甘みが出て美味しい。そんな言葉が並んでいる。

 

 著者は日本人だ。

 最後のページのあとがきには、この世界に来た裏人へ向けたメッセージが書かれていた。


 本の隙間から、一枚の紙が落ちてきた。

 そこには、この世界と思われる文字と漢字やひらがなが並んでいる。

 フィルが書いたメモだろうか。

 

 フィルが解読しようとした痕を見つけてしまい、言葉を失う。

 いつ来るかわからない裏人について、熱心に勉強していたんだろうか。

 


 明るくなった部屋の壁には薬草がたくさん吊るされている。

 リリンの両親も彼の薬はよく効くと言っていたことを思い出す。


「……仕事熱心な人」

 

 フィルが夜中に机へ向かう姿が目に浮かび、満希は胸がぎゅっと締め付けられる想いだった。

 彼の努力のかけらを見てはいけないような気がして、本の山を戻した。


 

「ただいまー」

「!」

 

 満希は玄関から彼の声が聞こえて青ざめた。

 彼女の周りにいた精霊も、一緒に慌てふためくようにぴょんぴょんはねていた。


「精霊さん、フィルを足止めしてください……!」


 精霊がフィルの部屋から出るのを確認し、満希は窓とカーテンを閉めた。

 

「え、なに?どうしたの?」

 玄関の方からフィルの困惑した声が聞こえてくる。

 どうやら精霊たちが、彼の足元でぴょんぴょこ跳ねて必死に足止めをしてくれているようだった。


 

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