わたしの世界 47
目が覚めても、すぐに身体を起こす気にならなかった。
澄んだ笛の音と腹に響く太鼓の音の中、緋袴がふわりと膨らみ、目を細めた結月が振り返る。
脳裏に焼き付いた妹の舞いを、何度も瞼の裏に描いた。
もっと見ていたい気持ちと、寂しさが胸の中でせめぎ合う。
寝転んだまま毛むくじゃらを探すと、ふわふわの毛に指が触れた。
しかし違和感を覚え瞼を開けると、ベッドの上に小型犬が寝そべっていた。
そう、いつもより小さな犬がいた。
「…………アサギリ?!」
すっかり眠気の吹き飛んだ満希は、あらゆる角度からアサギリを確認した。
犬は眠そうな目をして身体を起こし、ぽてぽてとベッドの上を歩いて彼女の膝上に腰を下ろした。
昨日まで長い鼻先の定位置だった膝上は、今では身体がすっぽりおさまってしまっていた。
満月色の瞳や長い鼻先も、アサギリのものだった。
「一体何が……」
変わらない手触りの毛並みを撫で、結月へ会いに行く前のことを思い出す。
そのとき霧神様は、道をこじ開けることは何度もできないと言った。それだけ大きな力を使うのだろうか。
「……なんだか、少しずつ小さくなってない?」
初めて夢で会ったときは、建物のように大きかった身体を眺めた。
その代わり、満希の中で感じるアサギリの気配は、強くなっている気がした。
小さくなったアサギリを抱きしめると、土のにおいがした。
身支度を整えて外に出ると、冷えた空気が頬を撫でた。
辺りはうっすらと白く染まり、植物の匂いが鼻をくすぐる。
妹と踊った舞いがまだ身体に余韻を残し、勝手に足が動きそうだった。
裏庭のココ鶏の方へ向かおうとして、満希はログハウス前の庭先で立ち止まった。
アサギリが霧神様だと初めて知った日、この場所で舞いを求められた。
あのとき満希にとって舞いは辛い記憶で、それを求めてくる霧神様は得体がしれなかった。
下から見上げてくるアサギリに視線をうつし、満希の目元がゆるんだ。
裏人の渚から聞いた、この世界にやって来る裏人の共通点を思い起こす。
小さくなっても変わらない眼差しを向けるアサギリを見つめた。
「……アサギリが、ここへ私を呼んでくれたんだね」
アサギリは何も言わずに鼻を鳴らした。
代わりに天高く鼻先を空へ向けて、小さな身体には似合わない狼のような低い声で遠吠えを響かせた。
その声は、聞き覚えがあった。
この世界へ迷い込んだ日に聞いた、恐ろしかった獣の声と同じだった。
狼の遠吠えに多くの意味があると言われるが、その中のひとつが満希の頭をよぎった。
「……仲間を呼ぶ声」
あのときも、満希を呼んでいたのかもしれない。
アサギリの声に応えるように、山がざわめいた。
動物たちや精霊が森の奥に逃げ、辺りの空気が変わっていく。
背の高い木々を見上げると、それより遥か上に巨大な影——精霊の核が霧の隙間から現れた。
循環から外れた精霊の核は、時折連なって山を彷徨う。
山の奥の窪地に、無数に転がっていた石が脳裏を掠めた。
——可哀想な子たちだよ。
彼の悲しい声が頭の中で響き、満希は凛とした瞳で連なった影を見据えた。
「私の声が届くなら、祈りたい」
満希は、震える手を握りしめた。
アサギリが一歩踏み出すと、地面に魔法陣が現れ、辺りを照らした。
緊張した面持ちで魔法陣を眺める満希の足元に、いつの間にか白木の枝を口にくわえたアサギリが寄り添った。
満希がその枝に恐る恐る触れると、神楽鈴の音が以前と同じように頭に響いた。
もうあのときのように、うるさくない。
魔法陣の中心に立ち、神楽殿のような澄んだ空気を深く吸い込むと、胸の奥が静かになる。
地面から魔法の低い振動が伝わってくる。
葉先を滑った雫が頬に落ちたのを合図に、音もなく、足を差し出した。
舞うときはいつも、姿勢や足遣いばかり気にしていた。
祖母に学んだ舞いは、美しく見える所作だけではなかったはずなのに。
神楽の音がしない山の中で、瑠璃色のスカートが翻った。
結月の楽しげな舞いと、祖母の誰かを想う舞いを思い浮かべて、弾んだ足取りで靴の音を鳴らす。
今でも妹を妬む大嫌いな自分は心の奥にいる。でも、もう目を逸らさなくても大丈夫だった。
静かな所作とは対照的な動きで、地面を蹴った。
妹と踊った自由な舞いをしているつもりだが、祖母に教え込まれた型を踏んでいた。
満希は気づかないうちに、口元がほころんでいた。
満希は帰れなくなった巨大な精霊の核を見上げ、目を細めた。
——帰り道を、つなげられたらいいのに。
胸の奥に感じるアサギリの力が指先から溢れた。
枝で宙に輪を描くと、神の魔力が風になびき、きらめいた。
その光を見つけた精霊たちが光跡を追いかけると、まるで一緒に舞っているようだった。
連なった精霊の核は、足音もなくゆっくりと満希の方へ向かってくる。
以前のような恐怖はなく、アサギリの力に惹かれているのだと直感的に悟った。
扉の開く音が聞こえ、そちらに目を向けた。
ログハウスの前で、フィルが精霊の核を見上げている。
困惑した表情で振り返ったフィルと目が合った。
胸があたたかくなる。
彼の守るものを頭に浮かべていくと、強くなった光は白木の枝を照らした。
眠ったように動かなくなった精霊の核へ、光を帯びた枝を振ると涼やかな音が鳴った。
満希はそれを天に向けて振り上げて、瞼を閉じた。
帰れなかった悲しい魂たちと、最後にフィルを思い浮かべる。
「あなたたちも、無事に帰れますように」
鈴の音が辺り一帯に響きわたり、どこからともなく突風が吹いた。
風は木々を大きく揺らし霧を払っていき、満希はなびいた髪をおさえて空を見上げた。
精霊たちが、神様の魔力の光跡をたどり青空へ昇っていく。
それを目で追っていると、しだいに光が滲んだ。
さわさわ、と葉の擦れる音がようやく満希の耳に届いた。
風が吹いたせいか、森の匂いが強くなった。
足元にあった魔法陣はいつの間にか消え、精霊の核の影も見当たらなかった。
手にしていた白木の枝は先ほどよりも軽く、満希の中で感じていたアサギリの気配も遠くなっていた。
ぱき、と小枝を踏む音がした。
「ミツキ、これは一体」
傍に寄ってきたフィルが、彼女の顔を見るなり言葉を止めた。
フィルは黙ったまま動かなくなり、満希は首を傾げた。
「……泣いたの?」
フィルは、満希の頬を自分の袖で拭った。
満希は興奮冷めやらぬまま、返事ができなかった。
走り終えたあとのように身体はずいぶん重たく、肩で息をしていた。
風で煽られた髪は乱れ、泣いていた顔はひどい有様に違いない。
しかし彼女は気にした様子もなく、身を乗り出した。
「フィル……わたし舞えました!」
満希の無邪気な笑顔に、フィルは目を丸くした。
「うん、見てたよ。……すごい、綺麗だった」
表情を緩めたフィルは袖から指をのぞかせ、満希の涙のあとをそっと撫でた。
外気で冷えた肌が、あたたかくなる。
満希は翠玉色の瞳に目を奪われたまま、自分の荒い呼吸を聞いていた。
ふわり、と満希とフィルの間を精霊が横切った。ふたりは我に返ったように一歩ずつ下がった。
フィルの頭上に、蝶の形をした精霊がひらひらと舞い、その場に留まった。
彼はその精霊に耳を傾けて頷いた。
「それで今みんなは?」
フィルは、聞こえなくなっていた精霊の声が、いつの間にかまた聞こえるようになっていたらしい。
「……精霊の核が、消えた?!」
フィルの大きな声が辺りに響き渡った。
はっとした満希は、先ほどまで神の魔力があった白木の枝を握った。
「……届いたのかな」
フィルは満希と精霊を見比べて、眉を寄せた。
腕を組んだまま悩んだあとに、もう一度指の腹で彼女のなみだを拭った。
「ごめん僕、精霊の核、見てくる……!」
慌ただしく山を下りていく背中を、満希は触れられた場所に手を添えながら見送った。
ふわふわの毛が足元をくすぐった。
満足そうなアサギリにつられて、満希も目尻がさがる。
いつものように撫でようとした指が、震えていることに気づいた。
「……できたよ。おばあちゃん、結月」
満希の頬を、一筋の涙が伝った。




