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わたしの世界 46


 覚悟を決めた満希を、アサギリは満足そうに眺めた。

 甘えるように寄せられた犬の長い鼻を包み、満希はそこへ額を寄せた。


 


 白く霞んだ世界に立ち、厳かにそびえ立つ神楽殿を見上げた。

 辺りは、息苦しいほどに静まり返っていた。

 

 色あせた神楽殿の真ん中に、座り込んだ巫女を見つけた。

 絹のような長い黒髪は、何度も記憶でよみがえる妹のものとよく似ている。

 

 久しぶりに会った結月は怒るか、それともとうに忘れてしまっただろうか。

 満希は重たい足取りで、神楽殿の階段下に立ち、口を開いた。


 

「結月」

 

 呼ばれた妹は、おもむろに振り返った。彼女の涼しげな瞳からは、何を考えているか読み取れない。


 結月は驚くこともなく下を向いて、膝元に置かれた服を眺めていた。

 興味なさげな彼女の反応に、心臓が冷たくなるのを感じた。


 

「……またこの夢かあ」


 何かを諦めるような結月の声に、満希は眉をひそめた。

 膝元から目を離さない彼女につられて、握られている服に視線を移した。

 

 それはかつて自分が着ていた巫女服だった。

 

 

 満希は階段を上り、神聖な神楽殿に足を踏み入れた。

 結月に近づくにつれて、彼女の肩が震えていることに気づいた。

 下を向いたままの妹の前で、腰を屈めた。

 

「……服は大事にしなさいって、おばあちゃんに教えてもらったでしょ」


 結月の指先に触れ、固く握っていた指をほどいた。

 触れた彼女の指が、かすかに動いた気がした。


 

「……お姉ちゃん?」

 

 いつもの夢と違うとわかったのか、結月の暗い色の瞳が光を受けてかすかにきらめいた。

 満希は緊張した面持ちで、頷く。


 刹那、指先をつよく握り返された。

 

 

「今どこにいるの……?!」

 

 詰め寄ってきた結月の気迫に、すぐに言葉が出なかった。

 彼女の反応は、想像していたものとずいぶん違った。


 満希は視線を彷徨わせながら、どう説明するか考えた。

 


「お姉ちゃん、どこかにいる感じがするのに、ちっとも見つからない……」

 

 掴まれた指先に力がこめられ、痛くなるほどだった。

 常盤家は霊感の強い者が多く、彼女もそのうちのひとりだったことを、思い出した。


 

「反対側の世界に、いるの」


 淡々と答えた満希を、結月はまじまじと見つめた。

 彼女のまっすぐな視線に耐え切れず、満希は思わず苦笑いをした。

 

「……そこじゃ、見つからないわけだ」

 

 眉尻を下げた結月は、案外すんなりと異世界の存在を受け入れた。

 

 

 

 掴まれた指先が、あたたかくない。

 ここは現実ではなく、霧神様がつなげてくれた結月の夢の中だと実感する。


 

「今日は……謝りにきたの」


 言葉の端が、上ずった。

 真剣な表情の姉を前に、結月は「……どうしたの、急に……」と戸惑った声を出した。


 満希は言葉を紡ごうとしたが、ためらうように口を閉じた。

 結月をまっすぐ見つめて、浅くなった息を吸い込んだ。

 

 

「結月のこと……憎たらしかった」

 

 静寂のなかで、満希の小さな声が落ちた。

 本人の前で初めて口にした言葉は、ひどく醜い。


 結月は握っていた手を離し、顔を背けた。


 

「……知ってるよ。私を嫌いなことぐらい」


 結月は驚くこともなく、当然のように口にした。

 だが平然とした口調とは裏腹に、彼女の横顔は寂しそうに見えた。

 

「すごく辛そうな顔してたもん……」


 神楽殿の外に、結月の薄暗い部屋が見えた。

 満希は目を丸くした。ここが彼女の夢の中だからなのか、不思議な光景が見えてくる。

 

 部屋の奥に置かれた鏡台の前で、舞巫女である彼女の髪を、巫女姿の自分が結っている。

 髪飾りを選ぶ満希の表情は歪み、それを鏡越しに結月が眺めていた。


 

「ちがう」

 

 満希は、記憶を遮るように結月の前へ身を乗り出した。

 力の入っていない彼女の手を掬い上げて、両手で包み込んだ。

 

 

「……結月のこと、嫌いになんてなれなかった」

 

 滲む視界の中で、涼やかな結月の瞳が大きく見開かれた。

 彼女は呆けた顔で、強張った姉の手とその顔を交互に見比べた。


「憎たらしかったのに?」

 

 満希は瞼をきつく閉じて、頷いた。

 震えた唇を噛みしめ、困惑する妹を見上げた。


「……結月が羨ましくて、悔しくて」


 言葉を詰まらせながら、包んだ手をもういちどつよく握った。

 何度も閉じ込めた言葉が、喉元からこみあげてくる。


 

「そんなこと思う——自分が、大っ嫌いだったの……っ」

 

 

 押し込めたはずの涙が、頬を伝った。


 結月を見るたびに、大嫌いな自分から目を逸らし続けた。

 目を逸らすほど、舞巫女の結月がやけに明るく見えた。

 

 

「心の狭いお姉ちゃんで……ごめんね……っ」


 ずっと後悔していた言葉が口から出ると、堰を切ったように涙があふれだした。


 

 

 祖母の葬儀で流れなかった満希の涙が頬を伝って、つないだ指を濡らしていく。

 結月は白くなった姉の指先に、目を留めた。

 

 

「……私が舞巫女になった日、舞ったときにね」

 

 結月の小さな声が聞こえて、満希はぼやけた視界のまま顔を上げた。

 彼女の伏せた静かな瞳は、ふたりの指先よりも遠くを見ている。


 

「神様の前で、お姉ちゃんと一緒に舞うのを、想像したの」

 

 満希は息を止めた。

 霧神様の夢の中でみた、幼い姉妹の舞う姿が脳裏を掠めていく。


 

「……でも、ひとりだけ舞巫女になっちゃった」

 

 結月の声が、寂しげにぽつりと落ちた。

 

 舞巫女が決まったあの日、自分は何を想像していたか思い出そうとした。

 だが、頭に浮かんだのは祖母の教えばかりだった。

 


「私が舞巫女になってから悲しそうにしていたのに……私を見放す訳ないって、わかってたの」


 結月はいったん手を離すと、今度は満希の手を包み返した。



「……ごめんなさい……いつまでも甘えた妹で……っ」


 結月の大きな涙がおちていき、満希は息をするのも忘れてそれを見つめた。

 ここに来るまで、彼女の気持ちなんて考えたこともなかった。


 ひとりになった彼女もまた、同じように後悔していたのだとわかった。

 


「……結月は、悪くないじゃない」


 満希は言葉にしてから、口元を手で覆った。

 その言葉は、前にフィルが言ってくれたおまもりだった。


 

 

 満希は、濡れた彼女の頬を指の腹で撫でた。

 彼女の言葉を反芻すると、思わず笑い声が漏れ、潤んだ瞳と目が合った。

 

「私が見放す訳ないって、わかってたんだ?」

「お姉ちゃんは仕事熱心だもん」


「……選ばれなかったから、余計に頑張ってたのかも」


 満希は、何度も清掃した神楽殿を見上げて目を細める。

 舞巫女の装束や舞具の準備や片付けもしてきた。

 

 

「そう、頑張り屋の自慢のお姉ちゃん」


 懐かしむように目を伏せた結月は、はっきりと告げた。

 嫉妬するほど憧れていた妹に明言され、満希の視界がぼやけた。


「……嬉しい」

 

 包み返すように、結月の指先を握った。

 温度はないのに、胸があたたかくなるのを感じた。

 


 

「……お姉ちゃん、なんか変わった?」

 

 唐突な問いかけに、満希は自分の涙を拭いながら首を傾げた。

 結月は姉の顔をいたる角度から眺めた。

 

「なんか、すっごい素直なんだもん!」

 

 幼いころの面影を残した満面の笑顔に、満希は目を瞬いた。

 

「……どういう意味よ」

 眉を下げた満希は、口元をほころばせた。

 

 

 

 霞んでいた神楽殿に色が宿り、輪郭がはっきりと浮かび上がった。

 満希は目を擦り、眉をひそめた。


 

「ねえ、一緒に舞おうよ!」


 結月の手に勢いよく引っ張られ、満希がつんのめった。

 満希は泣いたばかりのぼんやりした頭で、一拍遅れて反応した。

 

「わたし、あれから全然舞ってなくて」

「いいから!」


 

 

 神楽殿は、神聖な澄んだ空気で満ちていた。

 向かい合わせに立った結月が深く息を吸って、力強く足を一歩踏み出した。


 適度に力を抜いた上半身を支えている、静かな足さばき。

 美しく見えるように、指の先まで神経がいきわたった細やかな指の使い方。

 静かで洗練された力強い舞は、かつての祖母を見ているようで、鼻の奥がつんとした。


 ぴたりと結月は動きを止めて、歯を見せて笑った。

 

 舞を覚え始めたばかりの幼いふたりが、互いの舞を見せ合って順番に踊った。

 その笑顔が次の番を告げているのだと気づき、目を瞬かせた。


 

 深呼吸をして、つま先に力を入れて踏み出した。

 ぎこちなかった手足が、しだいになめらかに動き始める。

 

 満希は、息を呑んだ。

 重心のぶれない足さばきも、深い息遣いも記憶の中の祖母と重なっていく。

 

 ——ああ、なんだ。

 

 

「……ここにいたの、おばあちゃん」

 

 

 自分の指先の輪郭が、霞んだ。

 

 もう祖母の声を聞くこともなければ、記憶も曖昧になっていく。

 なのに教え込まれた型が、色あせることなく自分の身体に沁み込んでいる。

 


 満希が足を止めると、結月が足を運ぶ。

 彼女の指先が軌跡を描くと、残光がきらめく。


 自分の中に感じる霧神様の影響なのか、彼女の魔力が見えた。それはアサギリの力に似た、神のものだ。



 白い空間であったはずの神楽殿の外が、神社の中へと移り変わった。

 あざやかな色の神楽殿が、やけにまぶしい。


 しだいに、神楽の笛と太鼓の音が聞こえ始めた。

 その中心で舞う結月は、見たことがないほどに笑っている。


 結月を舞巫女として選んだ理由が、わかった気がした。


 

 結月がくるりと回転すると、緋袴が重力に逆らい広がっていく。

 それは静的な巫女舞とはまるで違う。

 覚えたての舞を踊ったときと、同じだった。


 自分の番になると、満希はスカートを翻して回転した。

 意外そうな顔をした結月に、口元がゆるむ。

 型破りの舞なんて、大人になったら踊らないと思っていた。


 ちいさな頃の、わたしたちの舞はあんなに自由だった。



 しだいに、二人は鏡合わせのように、息を揃えて舞っていた。

 結月の緋袴と、満希の瑠璃色のスカートがふくらむ。

 

 視線が交わると、互いに潤んだ目を細めた。

 

 


 シャラン。

 足を止めて肩で息をしていると、風で遊ばれた鈴の音が遠くで聞こえた。

 あの日と同じ音だった。

 

 

「やっと……舞えたね」

 

 彼女の震える声に、頷いた。

 

 

 いつの間にか、辺りは静まり返っていた。神楽殿の外は白く埋め尽くされていた。


 ふと彼女越しに、遠くからこちらを見つめる大きな白狐が目に入った。

 その気配は、目の前の彼女とよく似ていた。


 

 

「……これが私の妄想でも……夢でも、嬉しいっ」

 

 結月が堪えていた涙が、白い肌を伝った。

 満希は雫を拾い上げ、胸がしめつけられた。

 

 お別れの時間が、近づいている。

 

 

「結月。わたしのおまもり、あげる」


 満希はポケットから、フィルにもらった胡桃の練香を取り出す。

 手のひらに置かれたそれを、結月は不思議そうに見つめた。

 

「もらって、いいの?」

「うん、私いっぱいおまもりあるから……」


 フィルの声が耳をくすぐり、無意識に口元が緩んだ。

 

 

 

「お姉ちゃん、なんか幸せそうだね」

 

 満希は息を詰めたまま、眉をしかめた。

 スカートの裾を掴み、今日初めて知った妹の苦悩を思い浮かべる。

 

「結月を置いてきたのに……ごめんなさい」

「ううん、私はお姉ちゃんの幸せを願うよ」


 結月は、癖で服の裾を掴む姉の指先をほどき、まっすぐに満希を見上げた。

 



「だって……生きてるんでしょ……っ?」

 

 結月の涼やかな瞳から、大きな涙があふれだした。

 

 つられて目の奥が熱くなった満希は、腕を伸ばして彼女を抱きしめた。

 何年ぶりかに抱き寄せた妹は、すっかり大きくなっていた。

 

 

 

「反対側から、舞巫女の仕事……応援してるね」

「うんっ……私は神様のために、舞うって決めたの」


 満希は誇らしい妹の背中を撫でた。

 

「立派なワンちゃんの神様だ」

 

 結月の声に振り返ると、白銀の毛をなびかせたアサギリがそばにいた。

 彼女が手を伸ばすと、アサギリは懐かしむように目を細めて頭を差し出した。



 意識が遠くなるのを感じ、満希はもう一度彼女を抱きしめた。

 


「……さよなら、私のおつきさま」


 遠くの方で妹の声が、聞こえた。

 

 

 

 ◇


 


 瞼を開けて、見慣れた天井の木目を見つめた。

 い草の匂いがしみ込んだ暗い部屋に、ため息が響いた。


 

「……都合の、いい夢」


 結月は起き上がり、濡れた頬を袖で拭った。

 布団の上に何か落ちたことに気づき、視線を落とした。

 

 夢で渡されたもの——胡桃が転がった。

 

 

 目を瞠り、震える手でそっと握りしめる。

 

 手の中で胡桃の蓋が外れると、中からラベンダーのような匂いがした。


 

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