わたしの世界 45
満希はようやく火照りのおさまった頬に手をあてて、空のコップへ冷えた茶が注がれていくのを見ていた。
「海は前に比べて、見違えるほど綺麗になりましたよね。局も町の人も、みんな言ってましたよ」
「ねっ!いつの間にか、綺麗になってびっくりしちゃった」
海を綺麗にした張本人の渚が、他人事のように言うので、満希とフィルは苦笑した。
「渚さんはここにきて、何年くらい経ちますか?」
「もう15年経つよ」
渚はフィルのコップに茶を注ぐと、水の音が高くなっていった。
「それ、サリーさんの服でしょ?」
満希は弾かれたように顔を上げ、渚へ向き直った。
仕立て屋店主の名前が、渚の口から出るとは思わず、満希とフィルは目を丸くした。
「私もこっちに来た時、服を作ってもらったんだ」
満希は、サリーが『前の裏人さんに、一番丈夫な布で服を縫ってあげた』と言っていたことを思い出した。
「女性はズボン履かないって言われて、本当びっくりしたよ」
「そ、そうです……!私も驚きました」
身を乗り出した自分に気づいて、満希は慌てて背筋を伸ばして姿勢を戻した。
霧神様が言っていたように、あの霧の山は境界が乱れやすく、裏側と混じりやすい。
渚も同じ場所にいたのだと知って、満希は嬉しくなった。
ふと初めてフィルと出会った日のことが、脳裏をよぎった。
「渚さんは、この世界——表側の世界に来た日のこと、覚えてますか?」
渚は頷き、懐かしむように窓の外へ顔を向けた。
つられて満希も海を眺めると、砂浜の上をすべっていく翠玉色の寄せ波が見えた。
「私ね、小さいころから地元の海で遊んでて、水泳部だったんだ」
満希は渚の幼少期や学生の頃を、すぐに想像できた。
その頃から、小麦色の肌だったに違いない。
「高校出た後は営業会社に入ってさ。うまくできないときは謎の迷惑料を先輩に払ったり、成績いいときは嫌味ったらしくトイレに名前を彫られたよ」
口元を手で覆った。
まるで何事もなかったように話す渚の明るい声に、胸が痛くなった。
「それって……普通なんですか?」
「普通なわけないじゃん!変な会社だったんだよ」
フィルが戸惑ったように問いかけると、渚は明るく返した。
「地方へ営業出た帰りにさ、夕日を映した海が綺麗だったの。そしたら、急に今の自分がちっぽけで惨めになって」
渚は窓辺へ顔を戻し、海を眺めたまま、ぽつりぽつりと話している。
彼女には、夕日が沈む赤い海が見えているようだった。
「……海に、帰りたかったんだ」
カラン、と音を立ててコップに入った氷が落ちた。
満希の呑んだ息は、口元を覆った指先に遮られた。
「気づいたら、不思議な山にいたんだよ。海にいたのに吃驚したよ」
明るく取り繕う声からは想像もできない先ほどの暗い目を見て、満希は唇を結んだ。
渚は自分のいた世界に絶望したのだと、はっきりわかった。
もし、彼女がここに来なかったら今頃——。
「満希ちゃんも、心当たりがあるんじゃない?」
渚は海から顔を戻し、まっすぐ満希に向き合った。
満希の瞳が揺れた。
霧で包まれた山に迷い込む前の、心が重たくなるあの日のことを思い出して、無意識に眉を寄せた。
「私も、おばあちゃんを亡くして……すぐにここへ」
隣に座ったフィルが、短く息を吸ったのがわかった。
記憶の中にある、色あせた葬儀の中心で、祖母を隠す真っ白な布を思い浮かべて、服の裾をつよく握った。
「……おばあちゃんのいない世界、どうでもよかったんです」
淡々とした声が、部屋に落ちた。
山へ入る前に感じた、不変に廻る世界への絶望が、久しぶりに満希の胸につかえた。
「わかるよ」
顔を上げると、渚の笑った歯がやけにまぶしかった。
絶望を共有する初めての体験に、満希は苦笑いをした。
局長のカイルが前に言った『この世界にやってきた理由は、裏人だけが知っている』という言葉が、ようやく腑に落ちた。
カイルは既に、理由を知っていたのだろう。
「他の裏人さんに聞いたんだけどね。この世界に来る裏人の共通点があるらしいの」
渚は広げられた羊皮紙に、ペンを走らせた。
満希とフィルは、弧を描いていくペンの先を目で追いかけた。
「ひとつは、夕方であること」
渚は太陽を描き、その上に直線を引いた。海に沈む夕日のようだ。
「黄昏時、ですね」
「そうそう。日常と非日常の境界が崩れる、時間……でしょ?」
黄昏の意味は教えてもらったんだけどね、と渚はペンをくるりと器用に回した。
「それから世界を捨てた裏人と、この世界の声が重なったとき」
「——声?」
満希は羊皮紙から顔を上げ、はっと息を呑んだ。
いつの間にか渚の周りには、魚の姿をした精霊が集まっていた。
フィルも驚いたように、精霊で溢れた部屋を見まわした。
彼女は気にした様子もなく、紙に絵を描いている。
どうやら、渚には見えていないらしい。
「私は、この海に呼ばれたような気がした」
渚は羊皮紙に海の絵を描いて、照れたように笑った。
笑顔に反応したかのように、精霊は彼女の周りを泳ぎ始めた。
満希とフィルはその幻想的な光景から、目が離せなかった。
「世界捨てたの自分じゃんって気づいてから——自分でこの世界に来たって、思い始めたの」
満希の手がぴくりと動いた。
精霊は満希の手元を何か探すように寄ってきた。
満希が手のひらを返してみせると、精霊はまるで餌をさがすように動き始めた。
ガチャリ、と玄関の扉が開く音がした。
「ナギサ、茶菓子を買ってきたぞ」
のっそりと居間に現れた長身の男は、渚に向かって袋を差し出した。
満希は見たことがないほど体格のいい彼を前に、一拍反応が遅れた。
「お邪魔してます」
満希とフィルが頭を下げると、男は無表情で会釈した。
「夫のヴォルクだよ」
渚は巨漢の男の横に立ち、親指でヴォルクを指さした。
指を差された彼は、彼女の手首を掴み、親指を上に向けた。
渚は、ヴォルクが買ってきた袋の中を覗き、表情が明るくなった。
「これこれ!ありがとう」
渚が笑いかけると、ヴォルクの固く引き結ばれた唇がゆるんだ。
満希は夫妻の顔を見比べ、すこしだけ頬を染めた。
ヴォルクが買って来た柑橘味のパイを渚たちと食べていると、においにつられたのか、眠っていたはずの赤ん坊が泣きだした。
すぐさまヴォルクがベビーベッドへ近づき、赤ん坊をひょいと抱き上げた。
強面のヴォルクが、やさしい眼差しで腕の中をのぞきこむ姿を、満希は凝視した。
「旦那さん、育児に協力的で素敵ですね」
「でしょっ……おかげで海に潜れてるんだ」
渚が何故先ほど水浸しだったのか理解し、満希は笑った。
赤ん坊の泣き声が大きくなり始めると、ヴォルクは廊下へ移動した。
「あの、そろそろ私たちお暇します」
「そう?なんか悪いね」
満希は首を横に振って、紺碧の部屋を見渡した。
同じ場所からやってきた渚が、この世界で幸せそうに暮らしているとわかった満希は、口元に柔らかな弧を描いた。
「今度は、おやつを作ってきます」
「ほんと!?私、みたらし団子が食べたい!」
渚と共に精霊が見送っていることに気づき、満希から笑みがこぼれた。
「何か、参考になるものはあったかな?」
「はい。渚さんの人生、素敵です……私には、真似できません」
満希が睫毛を揺らすと、渚はその手を掴んだ。
「見つけた人生、全力で楽しもうと思っただけだよ!」
小麦肌からのぞく白い歯がやけにまぶしく、満希は目を細めた。
小さくなっていく青い家に手を振り、満希はフィルをちらりと見上げて、すぐに俯いた。
「素敵なご夫婦だったね」
「はい、とても」
帰りの馬車の中で、夫婦を思い出していた。
満希は約束したばかりのみたらし団子を、どうやって作るか考えた。
「出会ったばかりのとき……僕、ミツキに何て言ってたっけ」
窓枠のほうへ身体を預けていたフィルが、ぽつりとこぼした。
満希は、外へ顔を向けた彼を見た。
「偉そうなこと言ったような気がする……」
フィルの暗い声に、目を見開いた。
思い返せば、満希は彼に祖母を亡くした話を、一度もしたことが無かった。
祖母は、満希が最後の別れを告げる前に、亡くなってしまった。
今でもふと、どこかで元気にしているんじゃないかと思ってしまう日がある。
最後の別れを告げることができず、後悔していた。
だからフィルにも言えなかったのだと、気がついた。
——会いたい。
満希は誰にも言えない願いを、胸に押し込めた。
「無神経なことも言ったような……」
「いつものフィルでしたよ。……ちょっと説明が下手な」
満希がいたずらに笑うと、フィルは肩の力を抜いて笑った。
「僕は考えすぎると、まあいっかって思う性質で……」
「知ってますよ」
説明下手の彼のせいで、転移魔法のときジェットコースターへ乗る前の気持ちになったことを、満希は未だにはっきりと覚えていた。
でもその分、判断が早かった。
「フィルは、迷ったりしなさそうですね……」
「そんなわけない!」
翠玉色の瞳が近づいて、満希は息を呑んだ。
あからさまに腰を引いた彼女に気づき、フィルは身体を引いた。
満希はすこし速くなった鼓動に素知らぬふりをして、彼を盗み見た。フィルはもう窓の外を向いていた。
悩みが多い彼に対して失言だったと、反省した。
「でも、迷ってる間に身体が動くときもあるなあ」
フィルは腕を組み、眉をしかめていた。
言葉にするのは上手くないが、なんだかんだ彼は自分のことを理解しているようだった。
「すごい……」
満希の素直な声が、こぼれた。
妹に会いにいく勇気がない満希にとって、彼の行動力が魅力的に見えた。
満希はポケットに入った胡桃の形をした練香を取り出し、指先でいじった。
「迷ってるの?」
「……はい、不安で」
満希がフィルを見上げると、彼は真剣な眼差しを返したが、すぐに表情をやわらげた。
「一緒に山を歩いた日のこと覚えてる?」
満希は彼とよく山を歩くため、どの日のことかわからず首を傾げた。
「ミツキはそのとき、やりたいことがわからないって言ったんだよ」
「……そんなこと、言いましたっけ?」
はっきりと思い出せなかったが、フィルは迷うことなく頷いた。
「やりたいことが見つかって、迷ってるんでしょ?」
フィルに顔を覗き込まれ、大きく頷いた。
渚に会って、自分の決めたことを貫きたいという気持ちが強くなった。
フィルの守るものを、一緒に大切にしたい。
「大丈夫だよ、ミツキが決めたことなら」
満希は目を丸くした。
しだいに鼻の奥がつんとして、あわてて顔を背けた。
おまもりが、またいっこ増えた。
「ね、帰りに甘いもの買って帰ろうよ」
「えっ……さっきも食べましたよ?」
「いいじゃん、遠出したら疲れちゃったよ」
フィルは、こんなに甘党だっただろうか。
満希は、無邪気に笑うフィルにつられて頬が緩んだ。
震える気持ちで、くるみの練香を握りしめた。
今夜、霧神様に伝えよう。
——妹に、会いに行こう。




