わたしの世界 43
「見ない顔の神様だね」
ざっくばらんな言葉が、耳に届く。
満希は無意識に背筋を伸ばして、弾かれたように顔を上げた。
見慣れた白い草原の中、建物のような高さの霧神様が佇んでいた。
満月色の瞳は、満希よりも先を見ていた。
「だけど、私の神様はもう既にいるんだ」
堂々とした声が、背後から飛んでくる。
振り返ると、巫女服姿の女性が、物怖じせずに霧神様を見上げていた。
真っすぐに揃った前髪から覗く、涼しげな切れ長の瞳。
古い写真の若い祖母に、そっくりだ。
「それに、帰らないといけない」
霧神様と巫女は、ちっとも満希を見なかった。
満希は違和感を抱き、こめかみに手を当てると、ぼやけた自分の手のひらが目に入る。
「……これは、霧神様の……記憶?」
霧神様の瞳が細められると、満希の胸の奥もきゅっと切なくなった。
それは自分の中に感じる霧神様の気持ちだと、すぐにわかった。
——我が願いが、お前を呼び寄せた。
もやのかかった霧神様は、申し訳なさそうに目を伏せた。
しおらしい獣の姿に、巫女は苦笑いをした。
「帰してくれるなら、アンタの願いを聞いてやってもいい」
巫女ははっきりとした物言いで、神相手に交渉した。
若々しい見た目からは想像できない貫禄に、満希は苦笑いした。
——舞を。
草原を撫でる風の音が、通り過ぎていく。
霧神様の瞳が、満希越しに巫女へ向けられる。以前、満希に向けられたものと同じだった。
巫女は意表を突かれた顔をしたあと、にかりと歯をみせて笑った。
「あんたも神様だし、うちの神様も許してくれるね」
巫女は胸を張り、霧神様と目を合わせた。
力強く足を一歩踏み出すと、緋袴が優雅に翻った。
足元の白い草葉は、彼女をまるで誘うように自ら倒れていく。
いつの間にか霞んだ視界は晴れ、白んだ世界の中で緋色が際立っていた。
美しく見える指先の使い方や、重心のぶれない足さばき。
何度も教え込まれた、おばあちゃんの舞だ。
どこからか風が立ち上がり、周りの草葉はひらひらと舞い始めた。
布の擦れる音がするたびに、風や草葉が彼女と踊り出す。
息も忘れて、幻想的な光景から目が離せなかった。
しだいに違和感を抱き始めた。
伸ばされた腕は大げさに動き、手元を見る筈の視線は、まっすぐに霧神様へ向けられている。
祖母に教えこまれた美しい所作とは、かけ離れていく動きだった。
緋色を目で追いかけていた満希は、はっとした。
祖母は、目の前にいる巨大な霧神様のためだけに舞っているのだ。
舞い終わると彼女は消え去り、草原がやけに白く見えた。
満希は知らない間に、心臓が速くなっていた。
あんな型破りの舞を、祖母がするなんて到底信じられなかった。
霧神様は踊っていた場所で、静かに目を伏せた。
同時に満希の頭の中を、様々な情景が通り過ぎていった。
見慣れた神社の中心で、若い祖母が舞をしていた。
子供を抱いた祖母が隣に並ぶ男性と目を合わせたと思えば、今度は年老いた祖母が孫の顔を覗き込んだ。
ちいさな少女たちが大きくなると、くるくると舞い始めた。
少女たちのまあるい涼やかな瞳が、互いを映して笑う。
「……わたし?」
満希は、巨大な霧神様を見上げた。
慈しむような目を伏せると、短い睫毛が覗いた。
満希が瞬きをした一瞬で、巨大な霧神様の代わりに、見慣れた犬の姿をしたアサギリがいた。
——この山は境界が乱れやすく、裏側と混じりやすい。故に、我が夢と時折繋がる。
断片的によぎっていく褪せた色の夢に、満希は呆然とした。
「……ずっと……見ていたの?」
祖母と稽古したり、妹の結月と覚えたての舞をたのしげに踊ったり。
選ばれなかった舞が、よぎった。
「……神様が、……私を?」
しだいに頭に浮かぶ情景が鮮明に色づき、この世界に来た満希ばかり映し出された。
フィルと食事を囲む姿や、精霊に話しかけている彼女の後ろ姿。
そして、やさしい顔の満希に撫でられた、霧神様の記憶のような光景が浮かんだ。
——やっと会えた。
胸の奥が、あたたかい。
それは自分のものか、霧神様のものかわからなかった。
アサギリは甘えるように、長い鼻を満希の頬に寄せた。
『少なくとも、今はうちの神様に見てもらえる』とフィルに言われた時は、よくわからなかった。
だけど——ずっと見ていた。
満希は何も言えず、寄せられた鼻筋を両手で包んだ。
アサギリは満希の手から離れ、彼女の隣に座り込んだ。
——核には、お前の祈りが届いた。
満希は、アサギリの背中を撫でていた手を止めた。
精霊の核に何ができたか知りたい満希の問いに、霧神様が答えてくれたのだとわかった。
「祈り……?どうして、私の祈りが?」
——調和しうる者だけ、届く。
満希は熟考したが、何を言っているのかまるでわからなかった。
「祈れば……いいんですか?」
満希は手を組んでみせると、アサギリは否定も肯定もしない。
——お前だけができる、祈りの舞い。
初めて夢で見た時と同じ、満月色の眼差し。
霧神様が祖母の舞に惹かれる理由も、どうして満希に舞って欲しいのかようやくわかった。
満希は自分の胸元に手を当てた。
あたたかいのに、しだいに苦しくなり眉をしかめた。
「でも、私はもう舞えません……」
瞼の裏に最愛の妹を思い浮かべた。
神楽殿の上で、自分と似た長い髪が、舞うたびに揺れる。
どんな表情をしていたか思い出せない。
「私は、妹の結月を……恨みました……っ」
震える手を、つよく握りしめた。
神楽殿で舞う彼女の背中ばかりを思い出し、結月とは長いこと口をきいていなかった。
「そんな私が、神様の前で……祈れる筈がありません」
あの場所は、彼女のもの。
だからもう、舞わないと誓った。
——ならば、行こう。
威厳のある声が、頭に響く。
言葉の意味がわからず、アサギリを見上げた。
しだいにアサギリの意図を察して、口元を押さえた。
「まさか結月に、……?!そんなこと、できるんですか?」
——道をこじ開ける。そう何度もできないが。
先程の緋色の舞を思い出す。
たしかあの出会いも、繋がってしまったと言っていた。
「元の世界に……戻るんですか?」
満希の声は、淡々としていた。
喉の奥に詰まった気持ちが、誰のものかわからない。
————もう、お前は帰れない。
目を伏せたアサギリは、彼女を慮っているように見えた。
満希は何も言えずに、口を噤んだ。
結月に伝えたいことがあって、あんなに後悔していたのに。
いざとなると、足がすくむ。
どんな顔をするだろうか、それとも——もう。
消えかけている記憶に、唇を噛んだ。
「……すこし、時間が欲しいです」
静かな声が、響いた。
アサギリは、彼女の頬をぺろりと舐めた。
満希は揺れる心地よさの中、意識が戻ってくる。
ああ、駅に着いてしまう。暗い視界の中で、次の駅のアナウンスを待った。
一向に聞こえない代わりに、布のこすれる音と軋む音。
それに、やけにあたたかい。
瞼を開くと、見覚えのある黒い布地だった。
今の自分は何かに包まれて、足は宙ぶらりんだった。
「えっ……?!え?!」
「あ、ミツキ起きた?」
「……え?!」
頭上から降ってきたフィルの声に、満希は今度こそ頭が覚醒した。
お姫様抱っこされてる。
「お、重いです……!降ろしてください!」
「ちょっ、ちょっと待って。階段の上で暴れたら危ないよ」
満希はぴたりと動きを止めて、大人しくなった。
薬草の匂いが、いつもより強い。
至近距離で見えた彼の鎖骨を見て、目を泳がせた。彼の胸元から、足音みたいな心臓の音が聞こえた。
下も向けない状況で、自分の長い髪で顔を隠した。
「もう床で寝ちゃだめだよ」
階段上で降ろされた満希は、平然とした様子のフィルを凝視した。
やけに手慣れている感じがした。
寝てしまった犬を運んだ、くらいにフィルは思っているのかもしれない。
満希は深呼吸してから、頷いた。
「朝ごはん先に作ってるね」
陽の差した階段を降りていくフィルを、目で追った。
フィルの大切なものを守りたいのは、嘘じゃない。
なのに、動けない。
「情けない……」
満希は熱を引き寄せるように、自分の袖を引っ張った。




