きみがいる世界 42
まどろみの中、土の匂いがするアサギリを腕の中へ引き寄せた。
——何故、知りたい。
霧神様の声が、頭の中で何度も響く。答えを探すたびに、フィルの顔がちらつく。
胸のくすぐったい熱に侵され、満希はアサギリの毛に顔を押し付けた。
「あ、きたきたフィルの坊や」
パン屋の前は、焼きたてのパンの匂いと話し声で溢れていた。
満希を迎えに来たフィルは、店先にできた人の輪の中で戸惑う彼女を見つけた。
「何かあったの?」
人だかりの間をすり抜け、フィルは深刻な表情で近づいてきた。
満希は眉を八の字にしたまま、彼へ袋を見せた。
「フィルに渡しておいて欲しい、と言われて……」
抱えた袋を持ち直すと、ガサリと音を立てた。
フィルは彼女の持つ大きな袋へ視線を落とし、面食らった。
中には、食材や薬草、子供たちのおもちゃや花束が山のように入っていた。
「ユランから聞いたよ。フィル、具合が悪いんだろ?」
「……ユラン? あぁ、この前仕立て屋に行ったから……」
娘のリリンが、父であるユランに話をしたに違いない。
「本当にこの村は、情報が早いな……」
フィルは一瞬だけ、呆れたような表情をした。
彼は野菜の入った籠を、青果店の店主であるティヴェリーから受け取り、愛想笑いを浮かべた。
「ありがとうございます。でも、悪いですよ」
ティヴェリーは瞬きを繰り返した後、豪快にフィルの背中を強く叩いた。
彼は涙目で、鈍く痛む場所へ手を伸ばした。
「遠慮なんて、フィルも大人になったねぇ。あんたが元気にならないと、薬は誰が作るのさ」
「あれは……誰でも作れる薬ですよ。作り方さえわかれば」
ティヴェリーにまた背中を叩かれそうになり、フィルは大きく飛び退いた。
「フィルが作る薬じゃなきゃ、意味がないじゃないか」
フィルは、息を呑んだ。
呆然とする彼の腕に、他の村の人たちはつぎつぎと見舞いの品を積んでいく。
「山の異変に誰が気づくんだよ。霧神様に怒られるだろ」
「魔物も、ちゃんと追っ払ってもらわないと困るし」
「フィル坊だからできるんだろ」
あっという間に、フィルの腕は見舞い品でいっぱいになった。
微かに頬を染めた彼に気づいて、満希の頬もゆるんだ。
「ミツキさんも、一緒に食べるんだよ」
パン屋の常連のひとりが、やさしい笑顔で彼女の顔を覗き込んだ。
「私も、頂いていいんですか……?」
「当たり前じゃない。夫婦でしょ?」
満希は、目を瞬かせた。
「そのうちおさまる」とフィルに言われた噂は、消えるどころか広まっていくばかりだった。
一度は唇を結んだものの、満希は小さく息を吸った。
「夫婦じゃなくて、わたし居候で……」
噂を改めて訂正すると、胸の奥がむずむずした。
四方八方から一斉に視線を受けて、口を噤む。
「……僕はずっと言ってたよ。夫婦じゃないって」
何度も訂正したフィルが、うっすら頬を染めて口を尖らせた。
満希の視線が泳ぐと、フィルも落ち着きなく首の裏をかいた。
村の人たちは固唾を呑み、彼らを交互に見比べていた。
「じゃあフィルお兄ちゃんたちは、どういう関係なの?」
少年が純粋な瞳で、ふたりを見上げた。
するとさっきまで賑やかだった人の輪が、急に静まり返った。
どういう、関係?
満希とフィルは瞳に互いを映し合い、慌てて同時に逸らした。
「仲が良い、同居人だってば」
フィルが子供と目線を合わせて、また愛想笑いを浮かべる。
耳が赤くなっていくふたりへ、村の人たちは生暖かい視線を送った。
「がんばれフィル」
「いろいろ頑張れフィル坊や」
村の人たちは彼の腕の中へ、さらに見舞い品を積み上げていく。
こぼれ落ちそうな荷物を抱え、彼は持て余すように笑った。
靴を慌ただしく脱ぎ、家の中に駆け込む。
木の香りを胸いっぱいに吸い込み、フィルと満希は大きく吐いた。
「やっと着いた〜〜!」
両手いっぱいに渡された荷物が食卓の上を滑り、青臭い匂いが広がった。
こぼれ落ちそうな見舞い品を前に、満希はフィルと顔を見合わせた。
「こんなに食べきれないよ……」
やさしい瞳でそれを見つめたフィルは、眉を下げた。
食卓いっぱいに積まれた見舞い品を眺めるうち、満希の口元もほころんだ。
彼女は台所に立ち、色とりどりの野菜を前に静かに息を吐いた。
重たいオーブンの天板の中央に肉を載せて、切った野菜を並べる。
食糧庫から小さな実を取り出すと、フィルが後ろから顔をのぞかせた。
「昨日庭で取った実だよね?」
「はい、お肉の上に乗せるときっと美味しいです」
肉の上に実を散らし、はちみつを垂らすと、フィルはそれを凝視した。
「これ……おやつじゃないよね?」
彼から不審な目を向けられ、満希は口元に柔らかな弧を描いた。
しばらくしてオーブンを開くと、甘辛い香りと熱気が満希の頬を撫でた。
色とりどりの野菜に囲まれた肉のローストを、すぐに大皿へ移した。
サラダに、青い野菜とチーズの付け合わせ。野菜がごろごろ入ったスープも食卓へ並べた。
香ばしい匂いを立ちのぼらせる料理から目が離せないフィルは、喉を鳴らした。
つい作り過ぎてしまった。
満希が椅子に座ったのを合図に、フィルは早速肉へ手を伸ばした。
大きめに切り分けた肉を、迷いなく口へ運んだ。
途端に、翠玉色の瞳がきらめく。
「おいしい!甘辛くてクセになる」
「香辛料が余っていたので、ハニーマスタード風にしてみました」
「前食べた魚介は辛すぎたもんね」
港町のルミエラで食べた海産物の焼き物を思い出して、満希は思わず笑った。
料理とともに、彼と過ごした記憶がひとつずつ蘇る。
はっきりと名前がつかない関係なのに、なんて贅沢な記憶なんだろう。
フィルが置いたフォークは、皿に触れてカチャリと鳴った。
黙ったまま料理をじっと見つめる彼に、満希は首を傾げた。
「……毒で倒れた時、僕のやってきたことが裏目に出たと思ってたけど……」
フィルはフォークを持ち直し、青色の野菜に刺した。
フォークに刺した野菜を、いろんな角度へ回す。
「村や山を守ること……全部、無駄じゃなかったんだね」
口の中に放り込み、味わうように瞼を伏せた。
満希の脳裏に、村や山を駆け回る彼の背中と、今日の村人たちの笑顔が重なった。
「無駄なんて一個もないです。知らなかったんですか?」
満希が得意げに笑うと、フィルははにかんだ。
真綿のような霧が、夜の山の輪郭を溶かしていく。
手元のランタンは霧を透かして、山を見つめる満希の横顔をぼんやり照らした。
軒下まで流れ込んだ霧が、彼女の頬をひんやり撫でる。
背後から、ウッドテラスを踏む足音が近づいてきた。
彼女が振り返ると、不思議そうな顔をしたフィルが暗い霧の中に浮かび上がった。
「こんなところにいると、冷えちゃうよ」
フィルは、持っていたブランケットを満希の肩へかけた。
風呂から上がったばかりなのか、石鹸の匂いがした。
「アサギリを待ってて……」
フィルはテラスに手をついて、アサギリを探すように霧の先を見つめた。
満希も視線を戻したが、淡いもやの中は何も見えなかった。
耳をそば立てると、遠くで虫たちや木のおしゃべりがきこえてくる。
静かなのに、ひとりじゃない。
「この山は……素敵だなって考えてたんです」
フィルがこちらを見た。 しかし、深い霧の中では、彼の表情まではよく見えない。
「……嬉しいな、僕の大切な故郷でもあるからね」
おだやかな声が、深い霧の中へ溶けていった。
「フィル、村の方にモテモテでしたね」
「モテ……」
満希がいたずらそうに笑うと、フィルの乾いた笑いが響いた。
「フィルの頑張りが届いて……嬉しくなっちゃいました」
机に積み上がった本や、山道を忙しなく歩く彼の背中が浮かんだ。
ひたむきに頑張る彼を傍で見てきたからこそ、その喜びが自分の中にもじんわり広がった。
フィルの周りに、精霊たちが舞った。
その声がまだ聞こえないフィルは、黙ったまま手を伸ばした。
「僕ね……この山を一人で守らなきゃいけないって、いつも思ってたんだ」
彼の指先へ精霊が寄り添い、ちかちかと点滅した。
普段は見せない彼の想いに、満希は息を呑んだ。
「でも、ミツキがそんな風に喜んでくれると……ひとりじゃなくて良かったって、思うよ」
こぼれてしまった彼の本音を、聞いた気がした。
努力を惜しまない、まっすぐな人。
そんな彼が、この山をずっとひとりで背負っていた。
満希は、霧にうっすら浮かぶ彼を見つめた。
「私も……この山に来て、フィルに会えて、良かった……」
フィルが精霊に差し出した手に向かって、満希もゆっくり手を伸ばした。
指先が霧の中で微かに触れて、すぐに離れた。
ふたりは息を止めた。
満希は自分が口にしたことを反芻し、顔が赤くなっていくのを感じた。
「……最初に出会えたのが、フィルでよかったっていう話を、ですね……」
「そ、そうだよね……」
山の声よりも、心臓の音がうるさい。
ぎこちない沈黙が落ちて、満希はフィルに触れた指先をぎゅっと握り込んだ。
視界が悪い霧に、こんなに感謝したことはない。
「あの、僕……ね、寝るね? ミツキも早く寝るんだよ」
つんのめった声を残して、フィルが遠ざかっていく。
扉から漏れた部屋の明かりが、霧をぼんやり照らして、やがて暗くなった。
満希は力が抜けて、膝から崩れ落ちた。
余計なことまで、言ったかも。
ひとりじゃなくてよかったと、フィルの声が頭の中で響いた。
満希はブランケットで顔を隠し、喉の奥に、じわりと熱が集まった。
ウッドテラスの床板に、爪の当たる音が響く。
霧を割って現れたアサギリが、満希の姿を見つけて大きな尻尾を振った。
安堵してアサギリを抱きしめた瞬間、彼と同じ雨上がりの森の匂いがした。
不意を突かれ、満希は身体を強張らせた。
満希は濡れたアサギリを連れ、居間へ戻った。
「霧神様……」
アサギリの足をタオルで拭き、満月色の瞳をのぞきこむ。
「私……何かできるなら、やってみたいの」
涼やかな瞳が真っすぐに霧神様を捉える。するとアサギリの満月色の瞳が、丸くなった。
「フィルの守るものを、一緒に大切にしたいの」
精霊も、彼のお気に入りの湖のほとりも。故郷で営まれる暮らしも、悲しい命を宿した精霊の核も。
ひとつずつ脳裏へ浮かべると、握った手に自然と力がこもった。
「この毎日がだいすきだから……私も守りたい」
声は、静かな居間へと落ちた。
アサギリは、満月色の瞳を満足そうに細めた。
——ハヅキと同じ瞳だ。
嬉しそうなアサギリの声が、満希の頭に響いた。
「…………おばあちゃんの……名前?」
驚愕した満希の頬を、アサギリはぺろりと舐めた。
犬は、慈しむような視線を彼女へ送った。
それ以上何も言わず、アサギリは甘えるように満希へ鼻を寄せた。
いつものように、満希がその長い鼻筋へ額を寄せると、途端に眠気がやってきた。
まどろみの中、アサギリの尻尾に包まれるのを感じ、意識を手放した。




